「墓は要らない」「死んだら忘れられて結構」で良いのか!

元企業戦士と無常観
最近、古くからの仲間の間で、「お墓をどうするか」というたぐいの意見交換が始まった。郷里が大阪の者が殆どなので、東京で死んだあとのことを考える。
すると、「墓は要らない」「死んだら忘れられて結構」というような考えが冒頭から飛び出している。仲間の間だけでなく、最近広く耳に入る。ひとつの無常観だと思う。
 集いには、経済成長を各所でリードした企業戦士が多い。月に一度集まっている。古希に近づいた自由な身である。しかし話題の範囲は限られ、文明観が弱いという意味で、無常観が滲みてきているように感じる。何も、我々の集いだけではない。大学や職場のOBの集いでは、さらにそうである
 経済成長で沙漠のように高エントロピーの社会
高度成長というGDP経済至上主義は、生産力の工業集中、人口の都市集中とともに、日本社会の人のつながり関係を大きく変えてきた。基礎単位である家族は、大家族から核家族化、さらに「個独」化へと分解し、ヨコの絆が薄まってきた。さらに少子化が重なり、世代の間のタテの絆も千切れそうになってきた。個々が砂粒のようにバラバラの沙漠のようで、まさに高エントロピーで死にいたる社会のように映る。
親が子を、子が親を殺す事件、親の遺体を隠してまで年金詐欺する家族が新聞を賑わす。近隣は無援・無縁の荒涼とした関係になり、年寄りに孤立・孤独死が襲う。さらに若者は、失業と労働強化、将来不安で、ウツと引き篭もりに至り、ときとして大きな事件を起こし、悪者扱いされる。そして先進国で自殺者率が第一位の汚名である。このような人の絆のヨコとタテが両方ない、荒漠とした事件や関係は、基本的には、無理なGDP経済成長とそれを支える政治が、石油ピークを無視し、GDP成長のための需要とコストを国民に押し付けていることによる。決して当事者個人の「遺伝子」のせいで収まることではない。
冒頭の「お墓をどうするか」問題に戻ろう
子供の頃、「人は誰もがかけがえのない存在」と習った。だから個人がこの世に生きた証しとして、墓が作られたのだと思う。
 実際、5,000年前の三内丸山の縄文人社会に、大人の墓も、幼児の墓も、「生」の意味を込めて整然と作られていた。では「墓は要らない」とはどういうことなのだろうか。「自分は、泡のように生まれ、泡のように消えていく」という生死観といえないだろうか。
 そうであれば縄文時代から今日まで、日本社会に続いてきた「かけがえのない人の生の尊厳」を覆すような観念といえないだろうか。
石油文明は、自然も人の心も奴隷にした
世界石油ピーク研究連盟創設者のColin Campbellは、石油エネルギーの優秀さを譬えて「石油文明は、ひとりが24時間黙々と働く奴隷60人を使っている社会」と表現した。生の輝きが無い奴隷は「墓は要らない」というに違いない。我々も多かれ少なかれ同じ境遇、荒涼とした無常観にいるのではなかろうか。
石油文明はお金を、自然も人の心も限りなく支配できるものにした。人の生活、絆のすみずみにまで、お金を介在させる仕組みになってしまった。人がバラバラに分解された社会の方がGDPの成長に好都合なのである。しかし、石油不足が間もなく始まると、石油文明は急激に崩壊していくのは間違いない。
墓を作る心が未来社会を救う動機にも
我々は、時に触れて、両親、祖父母、遠い縁者に想いを馳せて生きている。同様に、子供や孫、あるいはその縁者は、きっと自分の素性を知りたく、親である我々に想いを馳せると思う。
墓所は、子供、孫が自分達の先祖と対話する場所であろうが、これが無いと子孫に寂しい思いをさせると思う。大きさ、場所はともかく、墓所を作って死んだ方が良いと思う。
墓を作ることは自分のためではなく、子孫を大事にしたいと思う心の置き土産である。そして、真っ当な考えで墓を作ることは、子孫の生きる未来社会、石油文明後の低エネルギー社会を作ろうという動機になるものと思う。

 

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