国家の衰退と都市の復権か?

進行するネットワークの組み替え

ここ数十年間、密かに進行しているのは「ネットワークの組み替え」だと理解できるのではないだろうか。具体的には、以下の図が示すような「ツリー構造ネットワーク」(中央集権型ネットワーク)から「グラフ構造ネットワーク」(自律・分散・協調型ネットワーク)への組み替えである。

二種類のネットワーク

たとえば、電気通信の世界である。電話のネットワークは、典型的な「ツリー構造ネットワーク」であるが、インターネットの世界は(理念的には)「グラフ構造ネットワーク」によって成り立っている。人びとのコミュニケーションの手段としてのインターネットの比重は、年々高まっていることに異存はないだろう。

連動してメディアの世界でも比重の変化が起こっている。近代化の過程において主役を担ってきたのは、新聞・ラジオ・テレビ・雑誌と行った「マスメディア」であり、このシステムは「ツリー構造ネットワーク」を基調としている。今われわれが経験していることは、マスメディアの凋落であり、メディアの「非マス化」である。

インターネットは、個人レベルでの情報の発信を容易にし、ブログやツイッター、フェースブックなどの新たなインターネット上のサービスを利用することで、情報の発信源は飛躍的に増加した。「グラフ構造ネットワーク」を基調としたメディア空間が、着々と整備されつつある。

2011
年に入って、チュニジアに端を発した「アラブ民衆革命」に目を転じても、同様の傾向を確認することができる。アラブの非民主主義体制は、従来型のメディアに加え、インターネットに対しても情報統制の網をかぶせてきた。近代的な国家は「官僚制」や「軍隊」に代表されるように、中央集権的な「ツリー構造ネットワーク」を基盤として整備されてきた。民衆を押さえつけてきた秘密警察組織も、「ツリー構造ネットワーク」によって成り立っている。

こうした既存の体制に反旗を翻し、システムのトップを辞任に追い込んだのは、新しい情報通信技術を駆使した若者たちであった。彼らは、数万人から数十万人に上る人びとを動員し、デモを実現させたが、ここには明確なリーダーが存在しなかった。「中央」が存在しない中、ネットを介して組織的な行動を具現化させたのである。若者をつないだネットワークの形態は、「グラフ構造ネットワーク」であった。

国際社会の構造変化

国際社会において近代的な「主権国家システム」を構成している単位は、「領域的な近代国民国家」である。近代国民国家の成立および発展の過程において、エネルギーは極めて重要な役割を担っている。カギは化石燃料であった。

初期の近代国民国家は石炭を、その後は石油を基盤として、国内のあらゆるシステムを整備してきた。近代国民国家の興隆は、化石燃料の消費量の拡大と軸を同じくしている。化石燃料は、エネルギーが凝縮された資源であるため、「中央集権型のモデル」が構築可能であったし、そうすることがエネルギー効率的にも適している。

しかしながら「石油ピーク問題」は、こうしたシステムを維持、発展させていくことを困難にするであろう。私たちは、石油を代替する、より優れたエネルギー源を知らないまま「エネルギーシフト」を迫られるという「人類がかつて経験したことのない状況」に追い込まれつつある。

にわかに注目を集めているのは、エネルギーの凝縮の度合いが低い再生可能資源(太陽光、風力、地熱など)である。こうした分散型エネルギーは、分散して使用する方がエネルギー効率がよい。凝縮させ、再配分するという「中央集権型モデル」は、
EPR的に考えて割が合わない(EPRについては、別の媒体で簡単な説明を行っているので、詳細についてはこちらを参照されたい)。

エネルギー論の視点から考えても、「中央集権型モデル」から「自律・分散・協調型モデル」へのシフトは不可避であると言えるだろう。次世代の「自律・分散・協調型モデル」の核としては、近代的な国民国家は規模が大きすぎ、不適格である。

核として機能しうる単位としては、コミュニティ、より具体的には都市(近代化の過程で出現した大都市ではなく、より小規模な都市であり、街や村などもこの範疇に含まれる)の重要性が増していくに違いない。

国際政治学者の土屋大洋は、
2011年の著書『ネットワーク・ヘゲモニー』で以下のような記述を行っている。

「……国際政治におけるポストモダンのモードとは、近代主権国家システムというモダンが終わり、ネットワークによるヘゲモニー、さらに広くいえばネットワークによるガバナンスの台頭を意味するようになるだろう。近代を作り上げてきた壁が取り払われ、オープンなパワーの行使が行われるようになる。アクターはもはや国家や政府だけではない。国境の中に閉じ込められていた非政府組織や個人、超国家組織などが複雑なネットワークを構成し、そのネットワークを通じてパワーが使われるようになる……」(土屋大洋『ネットワーク・ヘゲモニー』NTT出版、2011年、144145頁)


こうした「ネットワーク化する国際社会」の中で、筆者が注目したいのが「都市」を核とするネットワークである。おそらく、石油ピーク後の世界では、「国家全体」が凋落したり、「エネルギーシフト」に成功し国家としてのパワーを引き続き維持したり、という「国家単位での議論」はあまり意味をなさなくなるだろう。

かわって、国家の内部で、興隆する都市ないしはコミュニティと、凋落する都市ないしはコミュニティという色分けになる可能性が高いと考える。このことは、国家そのものの消滅を意味するわけではない。国家はその形態を変え引き続き存続する可能性はあるが、国際社会の主要アクターという地位を追われる可能性が高い。少なくとも、これまでと同様の近代的な領域国民国家を維持し続けることは難しく、相対的な地位低下は免れない。

これまで国際政治学者が議論の前提としてきたような形での「主権国家システム」の発想では国際社会の理解は難しくなり、都市ないしはコミュニティを核とした「ネットワーク型の国際システム」の時代に即した世界観を持ち合わせておく必要があるのではないだろうか。

都市を核(ノード)としたネットワークのイメージ図

 

クリエイティブ・クラスを惹きつける都市、惹きつけない都市

こうした国際社会の構造下では、もはや「国境」に縛られた「国民」の姿は非現実的なものとなる。

「動ける個々人」は、(場合によっては国境を越えて)次の時代を生きるにふさわしい(生きたいと思う)都市ないしはコミュニティに移動し、次世代型のライフスタイルを模索し、構築していくことになり、「動けない個々人」は、ますますライフスタイルの選択肢を狭める可能性が高い。

アメリカで都市論を講じるリチャード・フロリダは、こうした「動ける個々人」を「クリエイティブ・クラス」という概念を用いて説明している。彼の階層論は、マネー(年収)をベースとした階層論ではない。彼らにとって居住地やライフスタイルの選択は、自身の「クリエイティビティ」を最大限発揮できるか否かによって判断され、収入は副次的な要素に過ぎない。

たとえば、「詩人」や「アーティスト」、「文筆家」などは、クリエイティブ・クラスと判断されるが、必ずしも経済的に裕福であるとは限らない。日々の生活がやっとという「詩人」もクリエイティブ・クラスの構成員である。彼らにとっては、「半農半
X」というライフスタイルも1つの選択肢であろう。

彼らには「創造的なパワー」があり、斬新な「アイデア」を生み出す力がある。これからのコミュニティにとって、ボトムアップ型のガバナンス的意思決定のあり方は重要なカギを握ると考えられるが、こうしたクリエイティブ・クラスに属する人びとは、その力を自分の所属するコミュニティに還元しようとするであろう。次世代型のコミュニティを創造するために、大きな力を発揮することが期待されるのである。

したがって、これからの地域コミュニティにとって、クリエイティブ・クラスを惹きつけるだけの魅力があるかないかは重要な要素となる。彼らを惹きつけるだけの魅力を放つ都市やコミュニティは活力を増し、そうでない都市やコミュニティは衰退することになるだろう。

前述のリチャード・フロリダは、クリエイティブ・クラスを惹きつける条件として「
3つのT」をキーワードに挙げている。それらは、技術(Technology)、才能(Talent)、寛容性(Tolerance)である。中でも筆者は、「寛容性」の指標にとりわけ注目をしている。「よそ者」を飲み込み、受け入れるだけの懐の深さを持った都市は、「クリエイティブ・クラス」が実際に移住する際に重要な要件となるからである。

石油減耗期においては、かつてのような大都市を維持し続けることは困難になる。自律・分散・協調型モデルにおいては、「人口密度」も重要な指標になると考える。したがって、これからの「都市論」を考えるにあたっては、以下の図が示すようなカテゴリーを考えておくことが有用であろう。

石油ピーク後の都市・コミュニティを考えるヒント

 


注目されるのは、①のカテゴリーに属すような都市でありコミュニティである。次世代型の都市作り・コミュニティ作りにおいては、①のカテゴリーに入るのか否かが重要であり、この文脈で地方における政策論を展開していく必要があるだろう。

ガバメント型の統治システムからガバナンス型の統治システムへ

現代の民主主義は、それを一国レベルで実現するにあたり、「規模」の問題から「代表制」を取り入れ、ガバメント型の統治を実現してきた。ガバメント型の統治システムとは、「ツリー構造ネットワーク」を基調としたトップダウン型の政策形成システムである。

対するのは、ボトムアップを前提としたガバナンス型の意思決定・政策形成システムである。これからの地方、これからの都市、これからのコミュニティにとっては、こうしたガバナンス型の統治システムが注目されることになるだろう。

このように考えてくると、今、本当にエネルギー政策論をベースとしたコミュニティの再編成を担うべきは、国政レベルの政治家や中央の官僚ではなく、地方自治の責任を負っている地方議員であり、自治体の職員たちだと思われる。

筆者は、この文脈から、地方の政策担当者の認識およびリーダーシップに期待したい。できうるならば、彼らと直接対話することで、次世代のビジョンについて問うてみたい。

地方自治に対する有権者個々人の覚醒、地方自治を担う政策担当者の覚醒および革新的で創造的な政策の立案・実施なくしては、直面する危機を乗り越えることは難しいと考えるためである。地方分権論も、エネルギー論をベースに再構成される必要があるだろう。その時が、「新しい都市論」の幕開けとなるに違いない。



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