誰のため、何のための自動運転車? 車社会の未来に、運転者の役割を全面的に人工知能(AI)に代えるべきではない
|東京工業大学 名誉教授 久保田 宏
日本技術士会中部本部・副本部長 平田 賢太郎
いま、自動運転車の声がメデイアで喧しい
自動車(automobile)と自動運転車(self driving car)と並べてみたら、日本語の自動車とは、自動運転車から運転の2文字をとったものであることに気がついた。人間が運転しないでも、自動的に走るのが自動車であるかのようである。
もちろん、これは単なる言葉の遊びである。もともと人間が運転することを前提としてつくられた自動車から運転者を排除することは、誰のため、何のためであろうか?
現代文明社会を支えている自動車の役割には、運転と輸送の二つがあった。すなわち、人間が速く自由に動ける、これが自動車の運転の目的であった。
その行き着いた先が速く走ることを目的としたスポーツカーであろう。週末に家族でドライブを楽しむための自家用自動車の役割のなかにも、この運転が残っていると思う。
一方で、輸送の役割で使われているのが、人間の輸送では旅客自動車(タクシー)で、大衆輸送用のバスであり、物の輸送では短距離用の小型、長距離用の大型のトラックであろう。ただし、この輸送の目的に対しても、人や物を安全で確実に輸送するための運転の役割を欠かすことはできない。
いま、メデイアの言う自動運転車の定義について調べてみると、運転者を必要とする在来の車に衝突防止装置などの安全運転装置を付設した車も自動運転車とよばれているようである。
したがって、人間が自由に歩くことのできる公道(高速道路などの自動車専用道路を除く一般道路)を運転者無しで走行できるようにつくられた車は、しばしば、完全の2字を付した完全自動運転車とよばれる。
運転者の居ない自動車なら、無人自動車でもよいはずだが、軍事用目的に使われる無人飛行機とイメージがダブるせいか、この名称は使われていない。
自動運転車利用の目的と対象は何であろうか?
ところで、いま、この運転の役割を完全に放棄した(完全)自動運転車の利用の目的と対象は、何であろうかを考えると、それは、必ずしも、自動車を利用する側の要望から出てきたものではないと言える。
確かに、体の不自由な人にとっては、運転を補助してくれる機能を持った車が要求されるであろう。しかし、それは、テレビ画面で見られるような、運転席を後ろ向きにして、スマホを手にする人のための(完全)自動運転車である必要はない。通常の車に運転補助の機能を付置した車があれば、それで十分、事足りる。
さらに、これは、健常者のための車についても要求されることだが、できれば、全ての車に対人と対物の衝突防止機能などの安全運転装置を付設した車が優先使用されることが、未来の車社会の要請であろう。
いま、メデイアが騒いでいる自動運転車の利用・普及の目的は、自動車を利用する人のためではなく、自動車を生産し、消費者に供給する側、すなわち自動車産業にとっての新しいビジネスの拡大のためである。
また、スマホの開発などで大儲けしたIT 企業が、新しい事業展開の対象としているのが、この未来の車社会での自動運転車の利用・普及である。
最近の報道(朝日新聞 2016/9/23 )では、“完全自動運転 日米で温度差、日本「段階的に」米国「一足飛びに」”の見出しで、“米国では、車を制御する人工知能(AI)で先行するグーグルなどのIT企業が一足飛びの完全自動化も視野に入れる。
これに対し、日本では、安全基準や事故時のルール作りに時間をかける必要がある、すなわち、自動運転車の時代に入るための法的な規制・整備が先行すべきだとしている。”とある。
何でも、アメリカに従属したがる日本だが、この自動運転車への対応は、一定の見識だと言ってよいかもしれない。
とは言え、両者とも、未来の車社会が、自動運転の車社会であるとしている点では変わりはない。
すなわち、いずれは、自動車の利用に、運転免許を持った運転者の存在を義務付けている現行のルールが変えられて、決められた運転技術を持たない人でも自由に車に乗れるようになるのが未来の車社会のあるべき姿だと決めつけているように見える。
しかし、果たして、それでよいのであろうか?
上記の新聞報道では、さらに未来の自動運転車の利用形態として、タクシーや過疎地での利用が想定されている。
しかし、このような利用でこそ、利用者を確実に目的地に連れて行ってくれる、あるいは物を運んでくれる、その地域の地理に詳しい運転者の存在が必要だと考えるべきではなかろうか?
未来の車社会は特権階級の独占物であってはならない
いままで経済成長を支えてきた化石燃料が枯渇に近づき、その価格が高騰し、それを利用できない人や国がでてきて、この化石燃料(石油)に代わる再生可能エネルギーで自動車を走らせなければならなくなる時が、いずれはやって来る(文献 1 参照)。
このような低エネルギー消費が要請される社会で、果たして現在のような車社会が存続できるかどうかの問題は別にして、ここでは、その存続を可能とする未来の車社会を考えてみる。
このような未来の車社会で、もし、運転者のいない自動運転車が公道を自由に走ることが許されるようになったとしても、全ての車が、そのような自動運転車に置き換わることはないし、また、その必要もないのではないかと私どもは考える。
これは、私どもだけではない、科学技術の限界を知る科学技術者に共通する考えではなかろうか。
その理由としては、先ず、第一は、安全性の確保の問題である。人間の自由な通行が許されている公道を、運転者なしでの自動運転車が、安全装置付きの在来の運転者付きの車(非自動運転車)に較べて、より高い安全性を確保できるとは考えられないからである。
すなわち、もし、自動運転車が自由に公道を走ることが認められとしても、それが、在来の非自動運転車を排除する理由にはならないし、また、在来車の運転資格のない方々が、運転者の居ない自動運転車を自由に利用できる特権を与えられる必要もない。
これを言い換えると、自動運転車でも、安全性の確保のためには、ハンドルの装着と、在来の非自動運転車の運転資格に近い、一定の運転能力を持つと認められた人の乗車が義務付けられるべきであろう。
全ての車が(完全)自動運転車に変わる未来の車社会があり得ないとするもう一つの理由として考えなければならないのは、消費者にとっての経済性の問題である。
それは、いま開発中の(完全)自動運転車は、多数の高性能カメラやナビゲーター無線システムなどを装着し、それを安全装置につなげるためのIT設備を設置するなど、在来の非自動運転車に較べると、かなり高価なものになることは避けられないと予想されるからである。
現代文明社会のシンボルでもある自動車は、古く、フオードがその先鞭をつけたように、特権階級の独占物であってはならないはずである。すなわち、経済成長が抑制されなければならない未来社会で、高価な(完全)自動運転車のみの存在は否定されるべきであろう。
未来の車社会で要求されるのは、在来の運転者を必要とする自動車に、可能な限りの対人を含む衝突防止装置を施すことであると私どもは考える。
人工知能(AI)による科学技術イノベーションへの過信が導いた自動運転車
いま、未来の車社会の主役とされている自動運転車が、現在の運転者付きの車を追い出そうとしているように見える。
その背景にあるのは、この自動運転車を動かしている人工知能(AI)が、人間の知能より上にあるとの多くの人々の科学技術イノベーションへの過信がある。
人間が作りだしたAIが、個々の運転者(人間)よりも正しい判断をするかもしれない。
しかし、それが、AIを使った安全運転装置と人間の判断との協力よりも安全だとして、自動車の開発利用当初から欠かせない役割を果たしてきた運転者を未来の車社会のなかから追い出す理由にはならない。
いま、世界的な経済不況のなかで、日本経済のさらなる成長を訴えるアベノミクスが、世界の経済競争を勝ち抜くために、自動車産業に求めているのが、AIによるイノベーションへの過信が導く高価な自動運転車の利用・普及ではなかろうか?
しかし、成長のためのエネルギーが枯渇して(文献 1 )、マイナス成長が強いられる日本の未来の車社会で、上記したように、運転者を必要としない高価な自動運転車を利用・普及しなければならない必要性はどこにもない。
未来社会における人工知能(AI )の役割と限界
人工知能(AI )は人間がつくったものである。
知的能力の高い人が、数多くのデータ(ビッグデータ)を収集してつくったAI であれば、平均的な人間よりも、事に当たって、より適切で正しい判断ができると期待してもよいであろう。
ただし、それは、過去に起こった事象に基づいての機械的な判断である。
したがって、今まで起こったことのない新しい事象に対しては、このAIが正しい判断を示してくれるかどうかの保証は存在しない。
例えば、AIを駆使した安全を謳い文句にした自動運転車でも、想定外の事態に起因する事故を起こす可能性はあるし、事実、すでにその例が報告されている。
しかも、これは、まだ、ほんの僅かの自動運転車の試験運転中でことである。
このような自動運転車の多数が公道を自由に走れるようになるためには、この想定外の事故の際の責任が、車の所有者にあるのか、車に設置したAIの製造企業にあるのかの法律上の未解決の問題も残されているようである。
これは、難しい問題のようだが、上記したように、自動運転車にも運転者の搭乗を義務づければ、自動運転車が起こした想定外の事故でも、その処理は、在来通り、この車の運転者が責任をもって対処しなければならなくなる。
人工知能(AI)は、あくまでも人間の知能を補うためにつくられたものであるから、その不備に基づく事故は、AIとは、そのような不備を持ったものであるとの認識を持たなければならない人間がその処理の責任を負うべきと考えるからである。
すなわち、未来社会において人間の知能を代行することを期待されて、人間の手によってつくられるAIは、あくまでも、人間の理性と良識ある判断の下で、厳しく制御された条件下でのみ、その利用が許されなければならない。
これは、自動車の場合だけではない。いま、AIの利用の対象になっている全ての社会的な課題に対して守られなければならないルールである。
これが、民主主義社会に生きる私ども科学技術者の常識から考えたAI利用の未来である。
ご批判と、ご意見を頂ければ幸いである。
<引用文献>
1.久保田宏、平田 賢太郎、松田 智;化石燃料の枯渇がもたらす経済成長の終焉、科学技術の視点から、日本経済の生き残りのための正しいエネルギー政策を提言する、私費出版、2016年
ABOUT THE AUTHER
久保田 宏;東京工業大学名誉教授、1928 年、北海道生まれ、北海道大学工学部応用化学科卒、東京工業大学資源科学研究所教授、資源循環研究施設長を経て、1988年退職、名誉教授。専門は化学工学、化学環境工学。日本水環境学会会長を経て名誉会員。JICA専門家などとして海外技術協力事業に従事、上海同洒大学、哈爾濱工業大学顧問教授他、日中科学技術交流による中国友誼奨章授与。著書(一般技術書)に、「ルブランの末裔」、「選択のエネルギー」、「幻想のバイオ燃料」、「幻想のバイオマスエネルギー」、「脱化石燃料社会」、「原発に依存しないエネルギー政策を創る」、「林業の創生と震災からの復興」他
平田 賢太郎;日本技術士会 中部本部 副本部長、1949年生まれ、群馬県出身。1973年、東京工業大学大学院理工学研究科化学工学専攻修士課程修了。三菱油化(現在、三菱化学)株式会社入社、化学反応装置・蒸留塔はじめ単位操作の解析、省資源・省エネルギー解析、プロセス災害防止対応に従事し2011年退職。2003年 技術士(化学部門-化学装置及び設備)登録。
車社会から撤退すること、石油ピーク後の必然です。