ウーゴ・バルディ著『嘘の帝国』

本稿は、「セネカ効果」を提唱した、ローマ・クラブのメンバーで、フィレンツェ大学地球科学学部の物理化学の教授であるウーゴ・バルディ氏のブログCassandra’s Legacy 2016年2月6日付けの記事“The Empire of Lies“を訳したものである。



トラヤヌスの柱は、2世紀にダキア戦争におけるローマ軍の勝利を祝って建造された。それは、現代人には素朴なものに見えるものの、古代ローマ人がプロパガンダを知っていて、プロパガンダを利用して、ちょうど私たちの時代と同様に当時も、死に至ろうとしている帝国が嘘によって統一感をしばらく保ち得たことを物語っている。だが、それは永遠には続かなかった。


5世紀初頭、ヒッポの司教アウグスティヌスは『嘘について』(De Mendacio)を著述した。今日それを読むと、アウグスティヌスがいかに厳格な結論に至ったかに驚かされるかもしれない。彼によれば、クリスチャンは、命を救うためであっても、誰かのために苦しみを逃れるためであってさえ、いかなる状況においても嘘をつくことができないという。アウグスティヌスが言うには、肉体の苦しみはどうということはなく、大切なのは自身の不滅の魂だった。その後、神学者たちはそういう要求を大幅に和らげたが、私たちがアウグスティヌスの時代、つまり西ローマ帝国の残された世紀をよく考えてみるならば、アウグスティヌスのマインドセットにはそれなりのロジックがあった。

アウグスティヌスの時代までに、ローマ帝国は嘘の帝国に成り果てていたのだ。ローマ帝国は、法治を尊重するふりをし、野蛮人の侵略者から民衆を守るふりをし、社会秩序を保つふりを続けた。だが、すべては悪い冗談になっていた。というのは、その頃には帝国の市民は、金持ちの特権を維持するために貧しい人々を圧迫する巨大軍隊のようなもの以外の何ものでもなくなっていたからだ。帝国そのものが嘘と化していた。市民の美徳ゆえにローマ人に報いる神々の恩寵によって帝国は存在する、という嘘。もう誰もそんなことを信じることはできなくなった。それはまさに社会構造の崩壊だった。古代人がauctoritasと呼んだ信頼感の喪失、つまり市民が指導者と制度に対して持っていた信頼の喪失だった。

そこで、崩壊現象のすべてにアウグスティヌスは応えようとしていたのだ。彼は、圧政を強いる政府のような単なる権威主義の形ではなく、信頼の形で「auctoritas」を再構築しようと奮闘していた。それゆえ、彼はすべての最高権威である神に訴えかけた。彼はまた、クリスチャンが殉教者というとても高い代償を払って手に入れた品格についての主張を構築していた。それだけではない。彼の著作物の中、とりわけ『告白』の中で、アウグスティヌスは、彼の考えと彼の罪のすべてを克明に語って、読者に自身のことを曝け出した。これは、隠された動機がないことを示すことによって信頼を再構築するという方法だった。そしてアウグスティヌスは、自らの結論において、厳格にならねばならなかった。嘘の帝国が戻ってくることを許す扉を残しておくわけにはいかなかったからだ。

アウグスティヌスや他の原始キリスト教の父たちは、何よりもまず、認識論における革命に従事していたのである。タルススのパウロは、「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリントの信徒への手紙13:12)と書いていたとき、すでにこの点を理解していた。それは真理に関する問題だった。どうすれば真理だとわかるのか?どのように真理が決まるのか?伝統的な見方では、真理というものは信頼された証人によって告げられた。そこからキリスト教における認識論は、神聖な啓示の結果として真理の概念を構築するために始まった。クリスチャンはGodを証人たる自分自身とみなした。それは霊的で哲学的なビジョンだったが、非常に現実的なものでもあった。今日、私たちは、古代ローマ時代後期のクリスチャンたちは「リローカライゼーション」の活動に従事して、地域の資源と地方自治にもとづいて社会を再建するために、金がかかってとても生活を守れない古い帝国のやり方を放棄しようとしていたのだ、と言うだろう。それに続く時代、つまり中世は、衰退の時代だったと思われているが、むしろ、それは変化した経済条件への必要な適応だったのだ。つまるところ、あらゆる社会は真理と整合的でなければならない。西ローマ帝国はそうすることができず、消滅するしかなくなったわけであり、それは避けられなかったのだ。

さて、私たちの時代に目を向けてみよう。私たちは私たちの嘘の帝国に到達している。現状において、あなたがまだ知らないことを私が語る必要はない。過去数十年間に政府によって私たちに投げつけられた嘘の山は、市民側では、指導者たちへの恐ろしいほどの信頼の喪失に見合うものになった。ソビエトが1957年に彼らの最初の軌道衛星スプートニクを打ち上げたとき、誰もそれが本当かどうかを疑わず、米国政府の反応は自国の衛星を打ち上げることだった。一方、今日では多くの人々が、1960年代にアメリカが人を月面に着陸させたことを否定さえしている。そういう人々は嘲笑され、陰謀論者としてレッテルが貼られるかもしれないが、たしかに、そういう人々がいるのだ。おそらく、この信頼の崩壊の分水嶺は、イラクに隠されていると言われた「大量破壊兵器」の物語にあった。あれは、彼らの最初の嘘ではなく、彼らの最後の嘘でもないだろう。だが、あなたはどうしてこうも熱心にあなたに嘘をついた機関(そして嘘をつき続ける機関)を信頼し続けることができるのか?

今日、政府あるいは遠回しに「公式」とされる情報源からのすべての声明が、現実逃避のようなものや否認に抗う声明であるように思われる。残念なことに、一つの嘘の反対が必ずしも真実ではなく、嘘、撤回のための嘘、次いで撤回の撤回のための嘘という具合に、奇怪な嘘の城を作り出している。ニューヨークでの911アタックの話を考えてみて欲しい。あの話の上に積み上がっていった伝説と神話の塊の下に隠れていても、どこかに話の真相、真実のようなものがあるにちがいない。だが、Web上で読んだものを信頼できないとき、どのようにして真実を見つければいいのか?あるいは、ピークオイルのことを考えてみて欲しい。陰謀論的な解釈の最も単純なレベルでは、ピークオイルは、石油資源の減耗をひた隠そうとする石油会社の嘘に対する反応と考えられる。逆に、石油が実際には豊富にあるという事実(「非生物由来石油」仮説では無限とされる)を隠そうとする石油会社によってつくり出された詐欺行為としてピークオイルを考えるかもしれない。だが、別の人々には、ピークオイルが潤沢な石油を隠すために考案された詐欺という考えが、不足を隠すためにつくり出されたさらに高次の詐欺だと考えられているかもしれない。さらに高次の陰謀論さえ創作可能だ。それは嘘のフラクタル世界であり、そこには、あなたが今どこにいるのか自分で納得するための参照点がないのだ。

つまるところ、認識論の問題なのだ。同じことはポンテオ・ピラトの「真理とは何か」(ヨハネによる福音書18:38)という言葉にもあてはまる。どこに私たちの世界の真理が見つかる、と私たちは仮定しているだろうか?科学の中?だが、科学はカタストロフィが来るともぐもぐ言っている人々からなる非主流の宗派になりつつある。格安のエネルギー、宇宙旅行、あるいは空中浮遊する自家用車といった約束を果たすことができなくなった後では、もはや誰にも信じてもらえない人々だ。次に、私たちは「民主主義」のようなものの中に真理を探求し、多数決がともかく「真理」を決めると信じるきらいがある。だが、民主主義はそれ自体の亡霊になってしまった。私たちが「知覚管理(perception management)」(以前は「プロパガンダ」と呼んでいた)と呼ぶ概念を発見してしまった後では、どうやって市民は情報に基づいた選択ができるというのか?

古代ローマ人の軌跡と同様の軌跡を辿りながらも、私たちはまだワシントンDCに住む神がかった皇帝を頂くには至ってないし、神聖な真理の宝庫たる法則に従って考えるようにもなっていない。そして、私たちはまだ新しい宗教が現れて、古いものを追放するのを見ていない。現在のところ、公式の嘘に対する反応は、ほとんど私たちが「陰謀論に傾倒する態度」と呼んでいるような状況である。広く蔑まれているわけだが、陰謀論的な見立てが必ずしも間違っているわけではない。陰謀は実際存在するのであり、たとえばウェブ上に広がる誤った情報の多くというのは、私たちに陰謀を企む誰かによってつくられているにちがいないのだ。問題は、陰謀論的な見立ては、認識論の類いではないということなのだ。もしもあなたが読むものすべてが大きな陰謀の一部だと決めてかかるならば、あなたは認識論の箱の中に自分自身を閉じ込めて、鍵を捨てている状態ということになる。すると、ピラトのように、「真実とは何か」と尋ねることしかあなたはできなくなる。だが、あなたは真実を決して見つけ出さないだろう。

制度と私たちの仲間である人々に信頼を取り戻すことを可能にする「認識論2.0」を考えることはできるだろうか?おそらく、できるはずだが、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている段階だ。たしかに何かがそこで動き始めている。しかし、それはまだ認識可能な形になっていない。それは、おそらく新しい理想、おそらく古い宗教の再考、はたまた新しい宗教、そして、おそらく新しい世界観を与えるだろう。新しい真理がどのような形式をとるのか、私たちはまだ言えないが、何かが葬られなければ新しいものは生まれないということは言える。そして、すべての誕生は痛みを伴ものだが、それが必要なことだとは言える。

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