Dmitry Orlov氏の『永続するコミュニティ  その3』

 本稿は、Dmitry Orlov氏のブログCLUBORLOV 2013年7月16日付けの記事"Communities that Abide—Part III"を訳したものである。ここでは、具体例を挙げて、小規模のコミュニティにおける共産主義的営みに焦点があてられる。 (小規模コミュニティの共産主義と国家共産主義とは明確に分けて考えねばならない!)


Alexander Kosolapov

 自給自足のコミュニティがうまくやっていくために拠り所とすることができる二つの組織化の原則がある。すなわち、生産における共産主義者の組織と消費における共産主義者の組織である。これらは、同じ規模の取り組みならば、はるかにより良い成果をもたらすのだが、いずれも大きな社会には一般に採用されない。大きな社会ははるかに浪費的になってしまう市場メカニズムまたは中央集権的な機構に頼らねばならないわけだが、市場にもとづくやり方ならば銀行家、商人、規制者、また、中央集権的なやり方ならば官僚や事務官といった具合に、いずれのメカニズムも莫大な非生産的諸経費を背負い込むことになる。歴史は市場にもとづくやり方の方が中央集権的なやり方よりもわずかながらより効率的であることを示しているが、いずれにしても小規模の共同社会で実践される共産主義者のやり方の効率にはかなわないのである。

 以下はピョートル・クロポトキンのアナーキーからの引用なのだが、ここで彼は共産主義者の生産と消費の利点を説明している。

 共産主義者の社会を組織化する際の信仰とその役割についての疑問はさておいて、個人的に取り組む労働に比して共産主義者の労働が経済面で優れていたことを例証したカナダにおけるドゥホボル(註:18世紀後半南ロシアの無政府主義的・無教会的な分派のキリスト教徒)の例を挙げることが打って付けだろう。無一文でカナダに到着して、彼らはそれまで人が住んでいないアルバータの寒冷な地方に定住することになった。馬を保有していなかったので、ドゥホボルの女性たちは一度に20か30の鋤で掘り起こし、一方、中年の男たちは鉄道で働き、共同社会に稼ぎを渡した。だが、7,8年後には、すべて共同体の原理にもとづいて、アメリカ製の草刈り機と草を集める機械、脱穀機、蒸気機関で動く製粉機といったあらゆる近代的な農具を用いて農業と生活を営むまでになり、6000~7000人のドゥホボルは幸福な水準に達した。

 それどころか、ブリティシュ=コロンビアの太平洋沿岸の土地を購入して、菜食主義者たちがアルバータでは不足して困っていた果物を栽培する共同体をも設立した。アルバータでは5月の霜で花がやられてしまうために、リンゴ、なし、スモモは結実しないのである。

 そして、そこには20の共産主義者の入植地からなる一つの組合がある。家族ごとに各自の家に住んでいるが、すべての野良仕事はみんな一緒に行われ、それぞれの家族は生活に必要なものを共同の倉庫から持っていく。この組織は、何年もの間彼らの信仰上の理想に支えられてきたわけだが、私たちの理想と一致するものではない。だが、私たちは、経済生活の観点から、個人的取り組みとしての労働よりも共産主義的労働が優れていることは争う余地もなく例示されているのだと認めなければならない。同様に、この労働のあり方を今日の機械化された農業の必要性に順応させる手腕も例示されている。

 同じような現代における例がフッター派(註:農業に従事して財産共有の生活を営む再洗礼派)の人々によって与えられており、彼らは農業における最新のトレンドと技術に精通しており、工業用資源を生産的に利用する傾向がある。

 共産主義者の生産方法は資本主義者の生産方法より勝ることは理の当然である。一方は、連帯とお互い様の義務感から共に働くことを動機付けられた人間集団であり、彼ら自身の自由意志で協力し、人生が単調にならないように仕事を自由に交代し、彼らがうまくいくと信じていることを自由に取り組んでいて、敬意を得ながら社会的な評判をよくする方法として働いており、働けなくなったとしても仲間が彼らや彼らの肉親の世話をしてくれるとわかっている。もう一方には、標準化されたスキルや仕事内容で分類されている商品化された人間がおり、気ままで不安定な労働市場で賭けごとをしながら、いずれ失業する恐怖ゆえに盲目的に秩序に従い、ホームレスになることや飢えから自分たちと肉親を守るために仕事に依存するも、「有能」だと思われるがゆえに仕事を抱え込んで「燃え尽きて」捨てられてしまう。こういうことすべての結果、合衆国の労働者の70%が自分たちの仕事を嫌悪しており、資本主義経済の大きな障害物になっている。

 ギャラップ調査のアメリカ人の職場レポート2013年版によれば、2012年に15万人以上の正規雇用者およびパート労働者を調査したところ、従業員の30%だけが仕事に没頭していて充実しているという。それは2010年の28%からは上昇した。だが、残りの人はそうではない。労働者の半数以上(52%)はずっと月曜の憂鬱を抱え、出勤しても仕事に特に高揚することはないのだ。残りの18%はやる気もなく、ギャラップ調査のCEOジム・クリフトンが報告書に書くように、「不満をぶちまけながら事務所を歩き回っている。」悪いことには、ギャラップ調査はやる気のない従業員のコストは失われた生産性として年間5500億ドルに上ると報じている。(リンク元 )

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 共産主義者の生産方法が優れていることを示してきたが、共産主義者の消費の話に移ろう。再びクロポトキンからの引用だ。

 農業における共産主義の成功した試みに加えて、その目的として純粋な消費を掲げる部分的共産主義の様々な例を示すこともできる。それはブルジョア社会の中で起こっている社会化の多くの試みの中にあり、都市全体(いわゆる自治または都市の社会主義)だけでなく私人の間でも起こっている。

 この方向の試みがブルジョア社会内でなされていないというのならば、ホテル、大型巡航客船、寄宿舎とは何なのか?一日何ルーブルかの支払いと交換して、船やホテルのブッフェで供される10種類以上の大皿から好きなものを選べるが、あなたはどんなに食べても誰かに明細に報告する必要はないのだから。

 ブルジョアたちは、個人の自主性と結びつけて、消費に関するこのような限定された共産主義的営為からいかに大きな利益をあげられるかを完全に理解している。だからこそ、彼らはそのようにアレンジして、一日あるいは一ヶ月あたりいくらといった支払いと引き替えに、寝食の必要がすべて心配なく満たされる。豪華設備の部屋や高級ワインのような贅沢品はもちろん別途支払われなければならないが、すべての人に同じだけの支払いで基本的に必要なものすべては満たされており、同じテーブルで各人が消費するものに多いとか少ないという心配はいらないのだ。  

 生産と消費をひとまとめにして、たとえばトウモロコシを育てている小さな農業コミュニティについて考えてみよう。そのコミュニティが共産主義者のように組織化されているならば、コーンを栽培して、同じコーンを分配し、それを調理して、食べることになる。コミュニティが資本主義者のやり方で組織化されているならば、コーンを栽培してから、それを加工業者に1ブッシェルあたり5ドルで売り、スーパーマーケットでそれを15オンスの缶詰(ほとんど水である)につき1.69ドルで買い戻すことになる。水の重さを差し引けば、彼らが買い戻したものはほぼ80分の1に減ったコーンである。市場経済に参加することによって、彼らは実質的にはコーンに98.75%の税率で課税されることを許しているようなものなのだ。

 こういうことすべてが意味することは、共産主義者のやり方で組織化されたコミュニティは5年ほどで自給できるようになり、その後、とても裕福になるということである。そして、(外側からの圧迫がなければ)豊かさは、しばしば破滅の禍根にもなってしまう。豊かさはとても多くの誘惑を作り出して、必要と欲望を区別することを難しくし、相互扶助の仕組みを無用にして廃れさせてしまうのだ。だが、豊かさゆえの危険が十分早く認識されるならば、豊かさの罠を避ける多くの方法がある。一つにはより少なく働くことであり、働いてはいけない日のリストを提案して、日曜日および安息日から始めてリストをさらに拡張していく。少しの努力で、仕事のスケジュールは年間100日ほどくらいにまで少なくできるだろう。別のやり方は、食事のたびにテーブルに新鮮な切り花を飾る、屋外の木工に高い質の研磨や塗装を用いる、複雑な手織りの旗を祝い事のときに掲げるなど、このようなことを要求して、非生産的ではあってもコミュニティの生活水準を満足させる営みを支えて余剰を食い潰すことだ。さらに他のやり方(モルモン教徒好み)は、布教活動に勤しんで、革命を広める。さらにさらに他のやり方は、フッター派好みのやり方なのだが、子供をたくさん作って見渡せる限りに広がり、がつがつ食っては農地を開墾し、共同体がダンバー数である150人を超えたならばいつでもアナーキー状態を保ちつつ総意による自治を継続するために分岐する、というものだ。もう一つ例を挙げよう。ロマの人々は3日間続く贅沢な結婚の祝宴を催して法外なお金を使い果たしている。過剰な富を使い切る方法は音楽祭から芝居制作、本物のように見える衣装で完成させる歴史物の再演まで様々だ。豊かさの脅威はよい問題であって、お金を溜め込むことが許されないならば、再び民営化の大きな誘惑を生じさせるものの、必ずしも損害を出すものではないだろう。

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 「共産主義者」という言葉を使うことに苛立つ人々は、軍事的あるいは政治的な「共産主義者の脅威」が息を吹き返してしているわけではないことに安堵するべきだ。国家共産主義は疑いもなく死んでいる。唯一残っていて、改心もなく国家共産主義の試みを続けているのは北朝鮮だが、例外があるのは規則のある証拠だ。他方、あなたの意見とは無関係に、あなたもまた共産主義者なのである。そもそもあなたは人間であり、種として存在してきた99%以上の期間、人類は、個人の土地所有もなく、賃労働もなく、政府もなく、2,3の所持品以上の私有財産もない、共産主義の原則で組織された小集団の中で暮らしてきたのである。それが共産主義でなかったならば、あなたは現存していないだろう。しかも、あなたに家族がいるとして、家族は共産主義の原則にもとづく営みではないだろうか。あなたは子供が食べるキャンディの請求書を子供に送りつけないだろうし、誰が子供たちを養育するか配偶者と協議しないだろう。「能力に応じて各人から、必要に応じて各人へ」という共産主義者の組織化の原則は、ほとんどの家族にも普及している当のことであり、それが実践されていない場合をずぼらとみなすものだ。こういうわけで、あなたが人間であって酸素を吸っているならば、あなたがある意味で共産主義者であるに違いないと想定しても問題がないように思われる。

 このことは政府での共産主義者のやり方や国家共産主義とは何ら関係のないことだ。国家共産主義が矛盾だということは端からわかっていたことで、それは国家社会主義という逸脱としてのみ存在したのであり、それが機能するように作られはしたが、あまりうまくいっていない。だが、それにもかかわらず、私たちは19世紀の大きな国際的な労働者運動で採用された原則を調べることで何かを学ぶことができる。次に示すのは、ピョートル・クロポトキンによって明快に述べられたことである。

1.奴隷および農奴制の現代版以外の何ものでもないがゆえに、資本家が労働者へと支払う、賃労働の廃止

2.集団の管理下におかれた生産と分配の組織化を要求する社会における一切の私有財産の廃止

3.経済的奴隷化のシステムを支持して維持する役目を負っている政府という政治的奴隷化の形式からの個人および社会の解放

 これらの教義は不合理で理想主義的であるように思えるかもしれない。つまるところ、こういうことを実践した結果どうなるというのか?最低賃金の工場へと仕事を移す鞘取り状態のグローバル経済・・・不安定な賃労働と政府の補助金にみじめにも依存する人々・・・というわけ、私が見つけた永続しているカウンターカルチャーのコミュニティは上記の教義をかなり採用しているように思われ、このことには注目するしかない。

というのは、永続しているコミュニティのすべてが、「プロレタリアートになる」ことを拒絶して、賃金のために働かずしてうまくやっているからだ。いくつかの具体例をみてみよう。

ロマは、ジプシーとしても知られるが、最大の永続きしている分離主義者の集団であり、(国勢調査で数えられることを拒否して身元を隠すので)彼らの人口は概数でしか知られていないが、一般には数百万人にもなると信じられている。彼らは職業集団(kumpaniaと呼ばれる)として仕事を請け負うが、個人としては決して契約しない。そしてすべての稼ぎはロマのbaroに支払われ、その人が自称リーダーで稼ぎを功労と必要に応じて分配する責任ある立場にある。この仕組みは外界から取り込まれたすべての他の商品にも拡張されている。たとえば、救援隊員はしばしば不快な思いをするのだが、それは補助金が受け取り手として指定された人には必ずしも届かず、ロマ人自身によって解釈される功労と必要にもとづいて分配されていることに気づくからだ。

フッター派は、16世紀のチロル地方に起源を持つ再洗礼派でロシアを含む多くの国々を行き来し、ついにモンタナとダコタ州およびカナダのマニトバ、アルバータ、サスカチュワン州に定住し、数万人を数える。彼らはとても高い出生率(いくつかの調査結果では最高位の人間集団)であるために急成長している。彼らは75から150人の大人の成員からなる農業共同体で生活し、完全に共産主義者であり、「すべて共有」という教義を実践している。フッター派は私有財産に関して一つの極にあるが、それは他の集団にも及んでいる。再洗礼派(アーミッシュ、メノ派教徒)、モルモン教徒およびロマはすべて、広範囲におよぶ相互扶助システムを支えるために、私有財産のかなりの部分を公共の福祉のために使うことを無条件に約束している。また、たとえばアーミッシュは社会保障制度から免除されるように合衆国の連邦政府に継続的に陳情している。彼らは社会保障制度のための納金を嫌だと思っていたわけではなく、社会保障制度を慈善活動だと考えていたのだが、しかし、相互扶助の内部システムには有害なものだと考えて、彼らは成員が外から小切手を受け取ることを望まなくなったのだ。同様に、モルモン教徒やユダヤ教正統派は、政府の補助金に依存しないコミュニティにするために組織内部に福祉組織を運営している。ロマの人々の間では、無条件で相互扶助が実践される社会単位はvitsaあるいはclan(大家族)であり、その社会単位内では、個人の富の自由なシェアリングが、養育費、保険、退職金の代わりになっているわけだ。 政府にできるだけ関わらないことに加えて、上述した集団のすべてが軍隊と何らかの関わりを持つことを拒否している。ロマは放浪生活を送り、徴兵通知が送られる住所をもたないことによって徴兵制度を逃れている。彼らはまた、組織内部に秘密の名前を持っているが、移住する際など、表向きの名前は頻繁に変わり、個人の特定を困難にするように努めてもいる。フッター派も同じく平和主義者であり、ロシアから合衆国そして合衆国からカナダに逃れることを強いられたのも徴兵を避けるためだった。ドゥホボルは、彼らの平和主義ゆえにロシアで迫害に遇い(彼らの創始のエピソードの一つには武器を集めて燃やしたことが含まれる)、アルバータに移住したが、州政府への忠誠を誓うことを拒否したために、ブリティッシュ・コロンビアへの移住を余儀なくされた。このような小規模で広く散らばった集団が武器や軍国主義に汲みしないことには完璧な意味がある。彼らが軍事面で多数派に敢然と立ち向かったとしたならば、彼らは一掃されてしまうだろう。それよりも、彼らの防衛策は脅威を与えることなく積極的に逃げることになるわけだ。とりわけロマはすぐに逃げ出す準備がいつでもできている。

これらの集団のすべては(ドゥホボルは例外で、後述する理由で周囲のカナダ社会に溶け込んでいる)賃労働と私有財産を抑制して政府の巧みな支配から逃れ続けるためにうまくやってきたけれども、そのような独立は維持するのが往々にして不可能である。というのは、固定資産税を納める必要がこれらの集団を外部との交易やときには賃労働にも駆り立てるからだ。税はこれらの集団にとってアキレス腱であり、(兵役と強制的な公教育の回避と共に)節税は独立を保ちたいすべての集団にとって最重要の目標であるにちがいない。ピョートル・クロポトキンは課税についてこう言っている。

静かにしかも素早く、いかにして貴族と裕福なブルジョア ―― 面と向かって立ち向かい、人々がかつて反抗した相手 ―― による人々の管理が人々の同意と是認をも伴って行われているかがこれだ、すなわち税を装って。

軍隊を支えるための税について話すことさえしないでおこう。というのは今や万人がこれらのことについて考えるべきことを知っているはずだからだ。常設の軍隊が人民を奴隷状態にするために用いられなかったときが一度でもあっただろうか?そして、武装した住民が立ち向かう土地を正規軍が征服できたときが一度でさえあっただろうか?

ともかく課税せよ、直接税だろうと間接税だろうと。土地に、収入に、はたまた消費に、政府債務の資金繰りの徴集だろうと債務返済の振りをするためだろうと。(というのも、御存じのように、債務は決して返済されることなく成長するだけだ)。戦争の軍資金のために課税せよ、公教育のために課税せよ。あなたがそれについて学び、結局それが何を導くかに気づいたならば、私たちが私たちを支配する者たちに譲り渡している大きな力、あまりの権力に呆然とすることだろう。

税は人々を貧困に陥れるもっとも都合のよい方法である。それは、地主も工業の労働者も、全階級の人々を破産させる手段を供しており、多大なる努力の末にも、福利面ではわずかばかりの改善で終わらせてしまうのだ。同時に、課税は富裕層の永続的な独占へと政府を作り直すためのもっとも都合のよい手段でもある。ついには、税は武器を蓄えるための適当な口実にされ、ある晴れた日に、住民が反乱を起こそうものならば、その武器が住民の鎮圧に用いられるのだ。

昔話の海に住む妖怪のように、税はすべての社会を混乱させる機会を供して、特権階級と政府の独占の強化に個人の努力を向けさせる。

課税によって武装された政府が存在し続ける限り、変革だろうと革命だろうと、どんな手段でも労働者の解放は達成されないだろう。

* * *

2ヶ月前に私は、かつては最大級のヒッピーの共同体だったテネシー州サマータウンのアルバート・ベーテ氏の農園と、ペンシルバニア州アルテミスのオーレン・ウィドン氏のthe Four Quarters Interfaith Sanctuary、そこは教会、修道院、ワイン醸造所、精密機械販売店、学校でもある異教派聖域で行われた会議に関わった。そこでの議論は、小規模のコミュニティがお役所の支配に巻き込まれることを回避できる方法に集中し、結論としては、次に挙げるものすべてがあれば、そんなコミュニティには可能性がある、ということだった。

教会
自然保護区
歴史的社会
少数派の所有

教会という考えが嫌いな無神論者の方々には、どうかパスタ派主義Pastafarianismをについて調べていただきたい。私は空飛ぶスパゲッティ・モンスターがロシアに首尾良く組み入れられていることを報告できて嬉しい。紳士淑女諸君、どうぞあなたのパスタ用ストレーナーを着用していただきたい!空飛ぶスパゲティ・モンスターの名のもとに、ラーメン!

この一週間考え抜いたことは多く、この辺りで終わろうと思う。次週、同じくらい重要なトピックを取り上げたい、それなしではコミュニティが永続し得ないという話題だ。つまり、子供と若者、いかに彼らを育て、教育して、彼らに離れて戻ってくる自由を与えるかという話題である、コミュニティを維持するための。

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