Dmitry Orlov氏の『崖の底にある藁の山』
| 本稿は、"Reinventing Collapse"の著者であるDmitry Orlov氏のブログCLUBORLOV 2012年2月26日付けの記事A Pile of Straw at the Bottom of the Cliffを訳したものである。
要約:石油生産の上昇局面に比べて下降局面は急峻になることが予測され、それはセネカの崖と名付けられた。危機が本格化してから準備をするわけにはいかないのだから、今から崩壊後を見越して準備をした方がよい。このことをASPOの会議で発表して、準備を促したつもりだったが、頭でわかっているはずの人も行動に移せていないことが嘆かれる。
ロシアの古いことわざがある。「落ちる場所に気づいたならば、そこに藁を敷こう」というものだ。(“Знал бы, где упаду—соломки бы подостлал.”)それはいにしえの人々の智恵でもある数え切れないほどあることわざの中の一つなのだが、通常、あり得ないことを予期することが無意味であることを表現するために用いられている。だが、ここで私は、不可避なことを考えることを拒絶することの狂気を強調するために、このことわざをふざけて持ち出したのだ。
このような観点から私が思索を始めたのは、昨年の10月にワシントンで開催されたASPO (Association for the Study of Peak Oil)の年次総会で講演するように誘われたときのことだ。あのときにはピークオイル・ムーブメントがなにやらウィニング・ランをしているかの様相を呈していた。というのも今や、世界の在来型油田の石油生産量が歴史的なピークに至った時期は特定されて、私たちの背後へと過ぎ去っているのだが、液体燃料となる新たな非在来型資源は量において十分には存在せず、また、財布にも環境にとってもコストがかかりすぎることが判明していたからだ。ともあれ、私としては、ピークオイルに関する予想の中にある大きな欠陥だと私が認識していることを今一度指摘するために、その講演の機会を活かそうとした。大きな欠陥とは、ゆるやかに地質学的にもたらされる石油生産の減耗という考えはまったく非現実的に思われる、ということだ。そのことを私は、1年以上も前に『ピークオイルはすでに歴史だ』と題する記事の中で詳述した。だが、私はその記事に示したこと以上のことを知りたくなり、石油生産が崖から飛び降りた後にも機能する計画や進行中の計画を達成するために採用すべきことは何かを展望したくなったのだ。
言葉による主張を表明するのも結構なことだが、しかし、言葉は数値や曲線と比肩するものではない。そこで私は出発点とするに足る要素を捉えている数学モデルを探し始めた。私は私とコンタクトできる人々に共同研究しないかと呼びかけた。そして、嬉しいことに、フローレンス大学のウゴ・バルディ教授からeメールを受け取り、私は考えていたことを尋ねた。ウゴ教授は、かつては非難囂々だったが今や正当性が認められているローマ・クラブの『成長の限界』モデルの権威であり、それを本ほどの長さにもなる最近のアップデートされたものと共に送ってくれた。
私はウゴ教授に返事を書いた。
「私が議論したいのは次のことです。ガウシアン(補注:ベル型曲線)を用いてピークオイルをモデル化する方法は個々の油田、個々の地域、個々の産油国を調べる際には合理的ですが、地球全体を考えるときには不合理だと思うのです。なぜならば、減耗過程にある産油地域や産油国と違って、惑星は石油を輸入できないからです。そして、オイル・ショックによって、工業経済は地質学的に制約された曲線に沿って徐々に減衰するよりもむしろ崩壊を帰結するのではないでしょうか。私の記事『ピークオイルはすでに歴史だ』の中に、EROEIの低下、輸出国の振る舞いによる影響など、徐々に石油減耗が進むよりもむしろ階段のように減耗が進むことを余儀なくする要因を列記しました。」
「ピークオイルについて単純なガウシアン・モデルを採用して、遠くからそれを眺めるならば、インパルスのように見えることでしょう。ピークの大きさや幅はさほどの関心事にはなりません。しかしながら、私たちはカーブに囲まれた面積が何なのかを知っています。もちろん、究極可採埋蔵量になります。これは、ピークオイルという「オルデュバイ渓谷」の見方になります。近づいて見るならば、立ち上がり部分の稜線は「成長」の稜線であり、経済成長や技術の進歩、探索調査の拡大などによって形作られたものです。そして、そこに私たちはつい指数関数的な成長を期待してしまうものです。他方、尻窄まりとなる部分の稜線は、私が列記した全ての要因による工業経済の突然の崩壊によって著しく影響され、指数関数的減衰曲線に類似したものになることが予想されます。いや、ステップ関数でうまく近似できるくらいの急変になるかもしれません。そして、そのような現象は、ある成長過程が限界に達したときに、普通に観察されることです。ビール作りは格好の例になります。酵母の数と糖の消費は指数関数的に増加した後、クラッシュするのです。」
「石油は、「もろもろのことを可能にする」エネルギー資源なので、他の資源を高速で減耗させることをも可能にしているわけですが、逆に石油の調達可能性における段階的な減耗は、ほぼ全ての他の資源の減耗過程を止めることになるでしょう。(ただし、田舎の薪やいくつかのものは例外)そのようなわけで、崩壊が遅れれば遅れるほど、再スタートするために残された資源はより少なくなってしまい、石油時代を延長しようとする試みはむしろ仇になってしまうでしょう。これは生態学的な議論なのです。オーバーシュートの程度が甚だしければ甚だしいほど、より大きく結果的に環境収容力が減じることになるわけです。それゆえ、「崩壊を防ぐ」を謳った計画やビジネスは百害あって一利なしでありましょう。」
「一つの代案は、ひとたび崩壊が始まるやすぐに効果的に配備できる資源など(必需品、道具や装置、計画、技術) を確保しておくことです。崩壊を見越して、完全に準備ができているビジネスの計画は進展可能で投資に値します。そうすることが、1.崩壊前の経済から資源を引き上げることによって崩壊を早めて、2.手仕事、有機農法、帆船などの熱機関を用いない輸送手段など、崩壊後のビジネスの早期復興に資することになるでしょう。このことは、すでにお金を投資する良い方法を明らかに欠いている状況(サブプライム化した米国財務省証券?金の延べ棒?アフリカの干ばつに見舞われた農地?)を見るならば、崩壊に対してヘッジする方法として投資家たちのコミュニティにも示され得ることでしょう。」
ウゴ教授が返答した。
「ん~、そうだね、私が君の指摘を理解しているとしたならば、君はガウシアンがよろしくないというわけで、ピークの後の「下降局面」は成長局面よりもはるかに急峻になるはずだ、ということでよろしいのかな?」
「そうだとしたら、興味深く、この着想について今日はずっと研究していたのですよ。そして、ちょうど1時間前に問題を解いたと思ったのです。おそらく、そのことはすでに他の人々にとっては明白なことだったのでしょう。私はそうではなかったわけですがね。おそらく私はあまり賢くないんだね、けれども少なくとも私は今、幸せなのですよ。というのは、私は君に話すことができるからです。つまり、私のシステム・ダイナミクスにもとづくならば、君の意見は正しい、ということです。下降局面は上昇局面よりもはるかに急峻になりますよ。」
「私が君のメッセージを受け取って、私はこの問題について私のブログ Cassandra’s legacyに投稿する準備を始めていました。もし君が2日待ってくれるなら、私は完璧なものに仕上げてから公開しますよ。その後で君がそれを読んで、もっと深く問題を議論できるかもしれない。私は君の投稿を確認するよ、それがこの目的に適うと思うからね。」
「すべてのものが成し遂げるのと同じくらいゆっくりと滅びるのであるならば、私たち自身と私たちの為すことの弱さについての慰めになるだろう。だが、実情はと言えば、増加は緩慢な成長である一方、廃墟への道は急転直下だ」セネカ、ルシリウスへの手紙, n. 91
私は返事を書いた。
「セネカ効果とは、とてもすばらしく、また、うまい命名ですね。(この冬私は、風邪で寝込んだときに、セネカのルシリウスへの手紙を再読しました。そして、多くの関連する事柄に気づきました。)このモデルにもとづいていくつかの他の効果を含ませることができるはずだと私は考えます。」
ウゴ教授は二つのとても単純なモデルを説明してくれた。
一つ目のモデルは、基準となる減耗曲線を再現したもので、ガウシアンのように見える。それは一組の直感的には明らかな関係性にもとづいたものだ。第一の関係性は、資源が開発される速度は残存する資源の規模と経済規模に比例するというもの。第二の関係性は、経済は時間の経過と共に減衰する(減価、エントロピーなどの要因)というものだ。初期条件を設定して、時間が経てば、期待される曲線が出力される。
二つ目のモデルは、汚染、官僚主義、あるいは諸経費を考慮したものだ。要するに、資源を開発する際に不可避な外部コストを考慮したのだ。流れの三分の一は、汚染溜めに向かい、それもまた時間と共に減衰するとした。これによって、一つ目のモデルでは、輸入を経由しつつ他国の資源を開発することによって、汚染溜めが一杯になっているにちがいないことが判明する。だが、惑星全体では輸入はあり得ないのだから、一つ目のモデルは地球規模でのピークオイルのモデル化には適切ではない。したがって、私たちは二つ目のモデルを用いなければならない。
そして、はじめに表計算ソフトを用いて、次にPythonの短いプログラムを書くと、セネカの崖モデルはとても容易に再現されることに私は気づいた。
私は私の計算結果をウゴ教授に見せた。彼から、「そのプログラムはうまく動いているようだね」と返事をもらった。そして私は、ポスト化石燃料のポスト工業時代に「機能するシステム」へと経済を「再起動する」ために採用すべきことを調べるために、このモデルに付加的な要素を加え始めた。私は高度に理想化して、野心的に楽観的な仮定をした。つまり、臨界レベルともいうべき多くの人々が、世界規模でピークオイルが起こって世界経済が回復の望みもなくクラッシュし始めると認識したとき、人々が正しいことをする、という仮定である。正しいこととは、残存している工業生産の10%を取り分けて、貯め込むということだ。それらは、ひとたびクラッシュが多分に成り行きまかせになってしまうや、ポスト工業時代の生活様式において「再起動する」ために用いるためのものだ。
この計画には問題もある。門外漢にとっては、世界規模でのピークオイルは感知することが非常に難しく、多くの混乱と躊躇をもたらすだろうということだ。最終的なクラッシュに至るまで、石油価格は歴史的な高値ではあるが、石油生産は増産を拒否しているかの如く、プラトー(一定量)に見えるからだ。
だが、このような問題を無視して(概念的なモデルを使って研究する際には、明快さのために幾分理想化しなければならない)、ピークオイルが起こる頃に「ピークオイルゆえの10分の1」を確保し始めて、また、化石燃料にもとづく経済がもはや私たちの助けにならなくなった頃に私たちが貯め込んだ全てを使うならば、その様は次のように見えることだろう。tity
拡大してみるならば、二つの引き金となる出来事がある。「10分の1」が(ピークオイル直後から)蓄積し始めるときと、崩壊後の経済を構築するために効果的に使われるとき(化石燃料経済がピークから50%ダウン時)である。
結果として生じる崩壊後の経済は、化石燃料に駆動される経済よりもかなり小規模になり、はるかに低い生活水準ではあるものの、現在の人口の相当部分を維持するに十分な大きさを留める。暖房や温水はないかもしれない。冬に温暖な地域で過ごすバケーションはあり得ない。季節外れの果物、高度医療などもないだろう。しかしながら、この代案よりもまだ良いものがあるらしいというか、こういった思考を全く欠いた代案が溢れている。
さて、私はASPOの会議で上記のグラフを提示したのだが、上品な沈黙に包まれてしまったのだ。その会議には幾人かの「投資家」も来ていたのだが、彼らは化石燃料にもとづく経済に投資する機会の議論に捧げられたセッションに参加することに忙しかったみたいだ。誰の反論もなかったが、あのときには、私が話したことにもとづく行動を余儀なくされるとは誰も感じなかったのだろう。どうしてそのように考えるのだろうか?議論を理解することができて、それを否定できないほど合理的に考える人々が、同時になぜ思考から行動へと移すことができないのだろうか?彼らを静止しているのは何なのだろうか?人類は酵母よりも明らかに賢いとして、人々がより賢明に行動できないのならば、何が問題になっているのだろうか?今後の投稿で私は、この問題に取り組むつもりだ。