石油ピーク後の経済

石油ピークの後、人口とエネルギー消費は減少し、経済は縮小していく。
これはもちろんマクロでの話で、個別の企業を見れば、新たに成長するものも沢山あるだろう。
バブルの絶頂期でも売上不振でつぶれる会社があるのだから。
また新たに生まれる産業分野もあるだろう。
しかし大勢から見れば、やはり経済は縮小していかざるを得ない。
産業革命以来の成長期が逆転していくのだから、この先100年以上収縮期が続いていくだろう。

縮小傾向があるからといって、爆発的に収縮してもらっても困る。
適当な巡航速度で収縮させる必要がある。
これにはとても難しい経済運営が求められるだろう。
政府部門の経済への影響力を相当強める必要があるだろう。

投資と金融制度

投資というのは、配当や企業価値の上昇を期待してするものである。
売り上げが減少し、企業価値が下がるのであれば、投資をする意味がない。
株式会社という企業形態も衰退せざるを得ないだろう。

金利を取ってお金を貸すという行為はきわめて難しくなる。
現在の金融制度では、だれかが銀行へ借金をすることで、この世にお金が作り出されている。
お金がこの世に増えていくためには、借り手の銀行に対する借金が継続的に増え続けなければならない。
そして借り手が借りたカネに利子をつけて返すためには、経済成長が永久に続かなくてはならない。
優良な貸出先がなくなって、銀行が信用度の低い借り手に貸したり、投機にお金を貸したりするのがバブルである。
健全な経済成長が行き詰まるとバブルが起こる。
経済が収縮すれば、お金に対する需要も収縮する。
金利どころか、お金の総量は逆に減っていくことになる。
銀行経営は不可能になるだろう。

そうなると政府が通貨を発行し、公的機関が無利子でお金を貸すしかないだろう。
一定金額以上の貯金に預かり手数料をとることにすれば、「減価するお金」が簡単に実現できる。
そうするとお金の動きが活性化するだろう。
生産される価値が減っていくからには、保存されるお金も減っていかねばならないだろう。
そうすれば不労所得で暮らす人や投機に走る人も減るだろう。

農業

特に懸念される食料の安定供給について、計画性を持った生産が必要で、食料を自由な営利追求の対象とすることはきわめて危険である。
いったん食糧危機が来てしまえば、田舎に田畑があるからといって安心できない。
一晩で作物が全部もっていかれるということもありうる。
現在の都市住民はまったく農地を持たない人がほとんどだろう。
戦後の食糧難のとき、都市住民がたんすの着物など持って農家を訪ね、食料と交換してもらったりした。
今はっきり言ってモノに価値などないから、それも不可能である。
どうしても政府がなんらかの食糧管理体制を復活しないといけないだろう。

経済収縮に伴う失業者の受け皿としても、この分野が中心にならざるを得ないと思われる。
経済収縮に伴い生活スタイルはしだいにスローダウンし、自給自足的なものに帰っていくだろう。
生活が自給自足に近づくほど生活コストは下がっていく。
自給的な農業は老齢になっても可能である。

もともと人類は500万年ものあいだ、一文無しで生活してきた。
お金儲けは人類の本能的な営みではないだろう。
世界4大文明圏で商業活動が盛んになったころ、世界3大宗教や老荘思想があらわれた。
いずれもお金儲けに否定的であった。
お金がなくてもそんなに心配することはない。
もっとも農業が始まったのもせいぜい数千年ほど前に過ぎない。

第二次産業と貿易

自由貿易は産業の空洞化をもたらした。
アメリカの自動車産業は、メキシコに工場を移し、日本のメーカーも東南アジアや中国へ工場を移転している。
本国より賃金の安い労働者を使って、本国で作るより安い製品を作り、本国に逆輸入して高く売り儲けている。
これは、実質的な労働市場の自由化である。
いま日本政府もマスコミも消費税の増税をこぞって訴えている。
しかし日本の「見えざる社会的コスト」を負担せず、雇用に貢献しない逆輸入ビジネスの商品に高率の関税をかける方が、理にかなっていると思う。

幕末の日本を訪れた西洋人は、日本の物価が非常に安いのにおどろいた。
現在でも一般に未開発国の方が先進国より物価が安い。
先進国の製品の方が、徹底的に生産性を追求しているのだから割安であってもおかしくないのに、なぜ未開発国の方が物価が安いのか。
それは生産コストとしての労働賃金が安いからである。
ではなぜ、先進国の労働賃金が未開発国の労働賃金より高いのだろうか。
それは先進国の生活スタイルが高コストだからだ。

激しい市場競争をしている先進国の住民は未開発国の住民より忙しい生活を強いられている。
洗濯機・冷蔵庫など家電製品、自動車やそれを走らせる道路などのインフラ、また外食産業などのサービスは、その忙しい生活をサポートするために必要とされるのである。
そうした製品やサービスやインフラはそもそも未開発国の人々の生活には必要ないのだ。
そうした未開国の住民には必要ないさまざまな物やサービスやインフラが、先進国の生活に不可欠の条件となっている。

また家族や地域共同体の絆が弱くなったため、未開発国では無償サービスである部分の社会保障も、有償のサービスとなった。
お金だけが老後の頼りとなり、老人たちはお金をしっかりと握り締めるからますます景気が悪くなる。
たとえ1億円の貯金があっても、お金しか頼れるものがないと思えば、決して自分が豊かだとは思えないだろう。
たとえ一人に1億円づつ配ったとしても、心に余裕がなければ、”景気”が良くはならないだろう。
豊かさは心の余裕から生まれるのであって、お金の額では計れない。

こうした事情から先進国の生活が高コストになり、労働者が高い賃金を必要とするのである。
これらが先進国の「見えざる社会的コスト」である。
この事情を無視して、未開発国の労働者と先進国の労働者をまともに競わせるならば、なにがおこるであろうか。
先進国の労働賃金は、未開発国の労働賃金に限りなく近づいてゆく。
したがって先進国の労働者の生活スタイルも、当然未開発国の労働者に近づいてゆく。
(そのこと自体の良し悪しはここではおいておく。)
そうなると冷蔵庫も洗濯機も自動車も、今までのような高い値段では売れなくなるのである。
もちろん景気はますます悪くなるのだが、もっとも困るのはだれあろう寄生ビジネスの当事者なのである。

このような自滅・亡国ビジネスを野放しにしておくべきではないだろう。
適切な関税によって負担すべきコストを負担させるべきである。
地産地消を進めるためには、地元で生産されない製品には、適切な関税をかける必要がある。
場合によっては地方政府にも関税権を与える。
その代わり消費税を廃止する。
または消費税を輸入品だけにかける。

娯楽・サービス産業

こうした分野はもともと王侯貴族や金持ちに仕える召使の仕事であった。
忙しく金回りの良い先進国では、高給を取ることも出来たが、途上国では乞食同然の暮らしを強いられている人も多い。
この分野は計画経済には適さないが、真っ先に縮小をせまられる分野かと思われる。

ワークシェアリング

市場規模が縮小していくのに、市場の独占競争を続けるとどうなるだろうか。
ある企業が市場を独占するほど、失業者が増えることになる。
その失業者には、政府が社会保障を与えることになるが、その原資は結局市場競争の勝者が負担することになる。
苦労してガンバっても労働者にとってあまり意味がない。
かといって市場を否定して完全な計画経済にすると、役人に権力が集中し、腐敗が起こりやすくなる。
ソ連型の独裁国家になってもこまる。
高い生産能力を維持し有効に活用するには、うまく市場をコントロールし適度な競争を維持しつつ、ワークシェアリングする方法を考えないといけない。

関税と所得税の累進強化で、市場独占へのインセンティブを削ぎ、地産地消を推進する。
最も心配な食糧生産は、計画経済でまかなっていく。
また減価するお金で消費を刺激する。
そして江戸時代の農村のような、スローライフの互助的共同体を形成し「見えざる社会的コスト」の低減を目指すことで、老いても心豊かな暮らしを実現できるのではなかろうか。

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