ジュネーブはなぜスイス?:ジュネーブ便り6

ジュネーブ市は、ジュネーブ州(カントン)の州都です。カントンとは日本の県にあたる行政単位です。ジュネーブと言った場合、多くはジュネーブ州を指します。ジュネーブは、ジュネーブ市を含めて45の自治体(フランス語でコミューン)からなり、人口は約44万人です。地理的にはスイスの西南端、レマン湖を囲うようにフランスに突き出たところにあり、国境は、北西に位置するジュラ山脈の麓であり、南東に位置するサレーブ山であります。町中から国境まで近いところでは4キロメートルです。
 
スイスの公用語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語ですが、ジュネーブはフランス語圏です。フランスに囲まれ、フランス語を話すのに、なぜスイスに属しているのでしょうか。その答えの糸口は地政学が与えてくれそうです。
 
ジュネーブにはレマン湖があり、ローヌ川が流れています。このローヌ川はレマン湖が水源ではなく、遠く東のサン・ゴタール山塊ローヌ氷河にあります。そこからシオンを抜け、レマン湖を経由して、フランス国内に入り、最後は地中海へと流れます。つまりレマン湖はローヌ川の一部だとも言えます。
 
ジュラ山脈とアルプス山脈に囲まれた地域は、ジュネーブ、ベルン、チューリッヒをまたがる南西―北東に伸びる堆積盆地が広がっています。レマン湖はその堆積盆地の南西端に位置します。ローヌ川がこの堆積盆地に突き当たってレマン湖が形成されたと考えられます(写真:サレーブ山から眺めたレマン湖とジュネーブ)。
 
 
ローヌ川は、アルプスとフランスを結ぶルートとして古くから交易の場となっていました。
 
スイスは古くはローマ帝国の支配下にありましたが、4世紀の後半の民族の大移動によってさまざまなゲルマン系民族が流入し、その影響でローマ帝国の支配は終焉し、スイス連邦の原型が形成され、またスイスの4つの言語の地図ができあがりました。
 
4世紀以降のジュネーブは、現在の旧市街周辺にある壁の中だけであり、壁の外はほとんど民家のない平原であったそうです。このジュネーブは4世紀以降、さまざまな民族によって征服されましたが、レマン湖、ローヌ川を擁し、交易の中心地として国際商業都市となっていきました。1535年、宗教改革がなされ、ジュネーブ共和国として終に一つの独立した国になりました。1798年にはナポレオンにより一度フランスに併合され、中央集権的な統治が行われましたが、ナポレオン失脚後の1815年のウィーン会議において、すでにルチェルン、チューリッヒ、ベルンなどが加わっているスイス連邦の一員となり、再び独立した共和制統治を獲得しました。
 
このような歴史を見ると、スイスは政治的、経済的に独立したカントンが一つ一つ集合して出来上がった、まさに連邦国であります。ジュネーブはスイス連邦に加わった最後のカントンであったわけです。
 
なぜカントンが政治的、経済的に独立し得たかといえば、アルプスの農畜産物を主体とし、必要なものは周辺との交易によって賄うことができ、また独立を守るため武装中立を貫いたため、ということでしょう。
 
連邦政府の主な役割は、国全体に関わる問題の処理であり、カントンは、教育、税金、電力供給などの多くの実行的な権限を持っています。そのため国民投票も行われますが、カントン単位、コミューン単位での投票も行われます。スイス人は、一人ひとりが国、カントンの重要な政策の決定権を持っていることになります。つまりスイスにおいては、政策決定は完全に民主主義で、透明であるということです。
 
日本の都道府県は、独自の政策を立案・実施するというよりは、中央政府からの政策を実施する行政単位となっています。また市民が直接国や自治体の政治に関与できる体制にはなっていません。そして過去の歴史、最近の原発事故にも見られるように、政策決定が不透明で、事実が隠ぺいされることすらありました。その点、スイスとは大きく異なることが分かります。
 
ジュネーブがなぜスイスか?それはジュネーブの地の利を生かした交易によって、他のカントン同様、アルプスの恵みを受け、民主政治を誇りとする人々が生きる地域だったから、ということではないでしょうか。

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