原発ゼロと石油ピーク、そして低エネルギー社会

福島第一原発の過酷災害は、収束どころか汚染水の海洋流出など災害が拡大しています。災害の原因も究明されていない。そして除染の遅れと莫大な費用、復帰見通しない約15万人の避難県民、「事故を起こしたから日本の原発は世界一安全」との詭弁、これだけの過酷事故を起こしても裁きを受けない産学官の当事者、問題だらけで安全・安心でない原発規制基準、死の灰の最終処分場も決められない子孫への無責任、卑しいほどに会社利益を守ろうと値上げと再稼働を策する電力会社・・・。

福島第一原発の過酷事故に対して、これだけ人の手におえないモノ、管理・救済能力もない国であれば、「『原発ゼロ』に踏み切り、再生可能エネルギーの大量導入と省エネの徹底」という国民多数のうねりは健全です。民族の品位、国家の品格を思う道義の道、世界の人々から受けた同情と支援に応える道であります。

石油ピークの警鐘

しかし、ひとつ、大きな現実が無視されています。それは、現在は、在来型石油の生産ピークの真っただ中にあるということです。在来型石油はEPR(エネルギー収支比)が非常に高いエネルギー資源で、石油文明の現代社会を創りだしてきました。その石油生産量が減耗し、EPRの悪化がさらに進むと、在来型石油の供給不足、急激な油価の高騰を招き、高エネルギー現代文明の動脈である輸送システム、石油依存農業等から文明の機能が劣化し、破綻していきます。現在はその流れの中にあります。

したがって、石油ピークを無視して「原発ゼロで低エネルギー社会」と主張する者がいますが、これではエネルギー政策、石油減耗後の社会のかたちを見誤ります。

なお、2005年の石油ピーク後、石油価格が高騰したためにシェールオイル等の非在来型石油が生産可能(ほとんど米国だけ)になりました。しかし、非在来型石油のEPRが低く、環境破壊を多々あり、石油文明を支えるものではありません。また、メタンハイドレートからのガスは自噴しません。大量のエネルギーと多額のマネーを掛けて汲み上げるもので、EPR(エネルギー収支比)が非常に小さく、将来技術に期待できるものではありません。要するに存在形態のエントロピーが高く、生産に大量の良質のエネルギーが必要なため、エネルギー資源といえるものではありません。

低エネルギー社会は【地域主義】

話を戻しますが、原発ゼロ+再生可能エネルギー+省エネの徹底⇒⇒低エネルギー社会ではありません。これでは現在の石油文明のかたちをそのままにした「省エネルギー社会」論に過ぎません。これに「石油依存からの脱皮」が加わってこそ、石油文明社会に代わる「低エネルギー社会」です。‘エネルギーが文明のかたちを決める’わけですから当然のことです。

石油脱皮と原発ゼロの低エネルギー社会のかたちは、石油文明とは異なります。第一の特徴は、グロバリゼーションからリローカリゼーションへの転換です。効率化を求める経済システムからしても、高騰化が進んで石油が「高嶺の花」になると、長距離輸送のエネルギーコストが障害になってきます。

次に、低エネルギー社会は地域主義が基礎であって、再生可能エネルギーを中心としたエネルギーの地域自給と、生態と共存する地域食糧自給の活動がコアになります。その上で地域の産業と雇用、文化・民俗の再生、地域社会力が再構築されていきます。大都市への「中央集中」がなくなります。大都市でも、食糧生産が必要となり、「都市農業」が盛んになり、また都市交通が自動車から自転車へと転換されます。実際に、西欧・米国の少なくない都市で、自転車化、都市農業が進んでいます。石油文明社会から次の低エネルギー文明社会への軟着陸が進められているとみるべきです。

地域主義といっても、適切な国際交易・交流は新しいかたちで盛んになります。

低エネルギー社会の価値観

そして、低エネルギー社会は、石油や原発のエネルギーに依存しない社会ですから、人間の叡智と個性、絆と共働、自然との共存、生態との共生が重要視され、また生かされる社会です。また、マネーが支配する資本主義経済システムが有効でない社会だと思います。

したがって、人間、自然、経済に対する価値観が石油文明社会とは根本的に変わります。

民族の理性としての「原発ゼロ」、現代社会の必然としての「石油文明終焉」を一体としてとらえて低エネルギー社会を構想し、行動することが、新しい心豊かな日本の将来を拓きます。

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