Dmitry Orlov氏の『永続するコミュニティ (序)』

 本稿は、Dmitry Orlov氏のブログCLUBORLOV 2013年6月4日付けの記事"Communities that Abide (Preamble)"を訳したものである。オルロフ氏は、先細りの未来にただただ悲憤慷慨するのではなく、より建設的に、キリスト教再洗礼派であるフッター派のコミュニティのような長く存続しているコミュニティの秘訣に注目し、生き残るためのヒントを供してくれている。本稿は、その『永続するコミュニティ』シリーズを書き始めた切っ掛けについて記したものだが、続篇の訳も追ってアップロードする予定である。


[更新情報: 多くのコメントがあり、興味深いのですが、私が見本として特徴を述べたり引き合いに出したりしたコミュニティを好きになるように主張しているかのように考えるコメントを書き込む人が多いように思われます。まったく違います! ここで取り上げたコミュニティは継続期間と成果において比類なく成功していることを私は単に指摘したまでです。どうぞ読者はご自身の結論を引き出して下さい。あなたは彼らと一緒になることができるし、あるいは、とことん非難することもできるのです。けれども、どうぞその結論から私のことは除外して下さいな。]

 The Age of Limits 2013と題する会議での私の二つの講演のうちの一つは、永続するコミュニティについてだった。それは最もうまくいっている実践事例を批評したものであり、安定的で、成長していて、複数世代を形成し、若者が離れないようにうまく対処していて、周囲の住民の生活に比べても多くの点においてより持続可能で回復力のある独特の生活方法を持った歴史あるコミュニティの経験にもとづいた内容だった。

 多くの場合、そのようなコミュニティは極めて優れた成果をも有しており、犯罪、鬱病、薬物中毒、配偶者や子供に対する虐待、殺人および自殺といったことの発生率も極めて低いのである。興味深いことに、そのようなうまくいっているコミュニティにはいろいろな違いもあるが、広範な類似性がみられるのだ。その類似性は、時間の試練に耐えてきたすべてあるいはほとんどのコミュニティにみられる文化的普遍性であることが判明するかもしれない。そのような包括的な結論に達するまでには私の研究は時期尚早ではあるのだが、その可能性が私に興味を抱かせているのだ。私はこの主題についてこれからの数週間にわたって詳細に調べることだろう。だが、とりあえず私は生ゴミを出さねばならない。

 件の講演は、二、三週間前にミネソタ州のNorth Huse Folk Schoolで講義した3-4時間のセミナーを短くしたもので、多くの見出しを使って(切り詰めながら)大急ぎながら、うまく進んだ。だが、この会議で、私が質問を受け付け始めると、糞みたくひどい嵐が舞い起こったのだ。聴衆の中の一人の女性が、なぜ私が取り上げたすべてのコミュニティは家父長制的なのか(実は彼らはそうではない)、と私に尋ねたわけだ。私は、母権制的な例を見つけることができなかったのだ。私はよく調べてきたのだが、完全にしくじったかのようで、こう答えるしかなかった。「なぜならば、それがなかったからだ」と。その後、しばらくフェミニストの大袈裟な言葉が矢継ぎ早に激しく飛び回っていた。私は収拾しようとして、その類の問題に関して、私の親しいロシア人女性を支持していることを話した。ロシアの女性はジェンダーの平等主義の実験に70年間参加して、それが失敗だったと結論を下している。現代のロシア人女性はアメリカ人の古いスタイルの「ラジカル・フェミニズム」を採用していない。それは物事を悪くさえするからだ。すると、一人のおとり(ゲイル(註:Gail Tveberg女史とは別人))が、Pussy Riotについてどう考えているのかを私に尋ねて、さらに緊張を高めようとした。私は、彼女たちは馬鹿者だと答えた。(彼女たちはくだらない政治的意思表示のために教会礼拝式の場の神聖を汚して、子供を育てる代わりに今頃刑務所でやせ衰えている。)この発言が幾人かの女性を立ち上がらせてしまった。やがて、つまるところ私は単に調べたことから得た情報を発表しているだけであり、イデオロギー上の立場を表明しているわけではない、ということを一人の女性が指摘したが、それでもなお彼女は心を乱し続けているように見えた。講演終了後も女性たちの一団は私にシーッと非難の声を浴びせながら忍び歩いていた。この追い討ちは、主催者のオーレン氏によると、Circular firing squad(註:firing squadは銃殺刑執行隊の意味だが、それにcircular(輪)を冠して、「仲間が内紛で互いを傷付け合うようになる集団」を表すときに用いられるイディオム)とみなされた。彼は講演終了後に私のところにやって来て、まだ私に足が二本ついていることを祝福してくれた。なにしろ私は地雷敷設地帯の中を歩いているようなものだったのだから。後から彼は私あての手紙にこう書いた。

 価値のある話題は、何年にもわたって革新派グループやコミュニティを壊す、ひどく皮肉な策略をもたらす段階になるのです。私はそれを犠牲者のテクノロジーと呼んでいるのですが、アジェンダを政治化するために多くの集団や諸個人によって用いられています。私はそういうことを何度も何度も見てきました。私が知っている人々で実際に真の人間(テレビの中の芝居じみたおしゃべりに反感を抱く)を組織する人々は、同じような経験を持ち合わせているものです。・・・進歩的な組織の形成に私は30年以上の経験がありますが、ある種の人々は進歩的なグループを苦しめると思われるCircular firing squadを組織化する形で関与し得ることになるのです。これが混乱の全貌ですね。 

 オーレン氏は他にも多くの考えを述べてくれたのだが、私はそれらについて考えるために時間を費やすつもりだ。今後の投稿の中でその話題を取り上げることになるだろう。

 さて、後になって、まさにそのゲイルが、厄介な間違いが盛り沢山で、理性よりも感情や偏見に訴える攻撃を含んだ内容のブログ記事で仕返しをしてきた。その中の一部について、ここに列記しておこう。

Four Quarters(註:NPOの名称)の理事会は女性とLGBT(註: Lesbian, Gay, Bisexuality, Transgenderの人々をまとめて呼称する頭字語)によって占められている。こういった人々が一人の男性によって支配されているかのように仄めかすことは女嫌いの陰湿さを実践しているということだ。

・感情を処理することに関するキャロライン・ベーカー教授の研究はイベントのアンケートの中で高く評価されている。彼女の仕事に対して個人的な複雑な感情を表明することは結構なことだが、個人攻撃は正当なことではない。

・私が話したことがひどく間違って受け取られて、この投稿内容が始まる切っ掛けになっているのだが、理解に裏付けられていない人々の感情をわざと害する嘲笑的な内容を含んでいる。

・慌てて集合写真の撮影を去っていく私が写った写真は私が逃げようとしているからではなく、オーレン氏が私の変わり種のデジカメの使い方がわからなかったからである。それはとめも滑稽な瞬間だったので、みんな笑っているのだが、ゲイルはそれをスターリン的なアジプロの如く悪用している。

・ゲイルは、アルバート・ベーテ氏がよく飛行機に乗るので環境保護論者を気取った偽善者だと遠回しに言っている。アルバート氏はよく旅行をするが、彼の旅行はフットプリントから物理的に炭素利用を減らすために個人的な努力をしている。これは彼のウェブサイトをちらっと見れば明らかなことだ。総計すれば、彼はとてもカーボン・ネガティブ(註:二酸化炭素の排出より固定に貢献している意)であり、他方ゲイルは彼女の大きなガソリンを食うトヨタ・ランドクルーザーで枯死した葉を見るためにあてもなく田舎を走り回り続けている。

・「オルロフの自家製ウォッカ」というものはない。蒸留酒製造場で働いている誰かがサンプルを配ったのだ。反ロシア的頑迷固陋というものだ。「おや、あなたはロシア人とウォッカを知っている!」(おまけは金歯と毛皮の帽子と鎖に繋がれたクマだよ)

 彼女のブログのコメント欄は「マーシャル博士の恐竜ランド」(註:映画Land of Lostの邦題、第30回ゴールデンラズベリー賞ではワースト作品賞を含む7部門にノミネートされ、うちワーストリメイク及び続編賞を受賞、つまり駄作。)の様相を帯びている。尋常ではないブログのコメント欄に生息する人々、すぐれたブログならコメントを載せないだろうことにいつまでもむっとしている人々。

 だが、どうしてこれがすべてノイズなどであろうか?幾人かの女性による「耳を傾けたいという需要」として受け取るべきではないか?(彼女たちは明らかに男性から分離した政治の有権者だと自身のことを考えている)そうだとしたら、彼女たちは正しく尋ねてこなかったように思われる。しかし、それはまったく的外れだろう。以下に示すのはオーレン氏からのさらなる得難い知恵である。

 コミュニティはしばしば、多くの関係者から、様々な理由で、脅威とみなされる。社会的に急進的なコミュニティが脅威だと考えられるのは、単純に彼らの考えが諸個人の生存しているパラダイムを閉ざし得るからなのです。コミュニティがすべて内側と外側の間の境界を定義するものだと気づいたならば、コミュニティに妥協することは、その境界を操作することになるのです。活動家たちのコミュニティに対して国が採る行動のよく知られた技術に関して言えば、コミュニティの内側の機能を撹乱することを意図して、関係者を潜入させて境界に穴を空けるということです。より簡単な方法は、境界を通るエネルギーと資源の自由な流れを妨げるようなやり方でコミュニティに罠に仕掛けて、コミュニティが外部と相互作用する能力を撹乱することです。この場合、別のやり方として、協力的な人々を疎遠にさせることによっても可です。

 コミュニティの外部との関係を攻撃する古典的な方法は、社会的な禁忌や神聖でおかせないものを利用して行われ、それが冒涜されていることが主張されるわけです。ゲッペルスが指摘するように、そのトリックは、コミュニティが外部社会との取引から孤立するように、確かめようのない社会の前提を用いるようなやり方で罠に掛けることなのです。その攻撃が本当のことを探ることのできないような言葉やレッテルを採用できるなら、なお効果的になるでしょう。最後に、ゲッペルスの最も重要な洞察。人々が基本的な仮定に作用する間違いを信じやすいという事実につけ込んで、聴衆の知的先入観に訴えかけること。かの有名なデマ宣伝(Big Lie)ですね。

 このことが、私が調べてきたすべてのうまくいっているコミュニティが余所者を中に入れない(避ける、追い出す)方法を知っている理由である。すべてのうまくいっているコミュニティは周囲の社会から分離した状態を極端に用心深く守っている。このことは彼らの生き残りにとって決定的に重要なことであり、周囲の社会よりも成員に対してはるかによい成果をもたらす上で不可欠なことなのである。私の理解では、諸々の実践は家族にも及んでいるにちがいなく、拡大家族はコミュニティの小世界である。とりわけ、私が信じるところでは、女性は周囲の病んだ社会から匿(かこ)われる選択権を与えられているにちがいなく、それによって彼女たちは健全さを保って健康な子供を産んで育てている。男性を匿うことはあまり不可欠なことではない。男衆を確保することは軍隊や残虐行為に特化した他の組織に供することにはなるものの、殺人は確かによい考えではない。企業社会への過剰な参画でさえもしばしば人間精神をかなり蝕んでいるではないか。このことがおそらく、私が調べたうまくいっているコミュニティのほとんどすべてが平和主義者であり、プロレタリア化を拒否し、賃労働を拒絶していることの理由なのだ。「父権制」や「母権制」という呼び名に関する意見としては、私にとって勝者たる呼び名は、もちろん、アナーキー(註:オルロフはアナーキーを通俗的な「無政府状態」ではなく「ヒエラルキーのない状態」として用いている。”My own personal working definition of anarchy, which has served me well, is “absence of hierarchy.” The etymology of the word is ἀν (not, without) + ἀρχός (ruler).” )であり、うまく組織化された、素晴らしいものだ。そして、たしかに、私が調べたうまくいっているコミュニティの多くは、実際に、自治の構造においてアナーキーなのだ。だが、もっとも重要なことはそれらのコミュニティの分離主義である。彼らの価値体系は彼ら自身のものであって、あなた方の価値体系ではない。あなたは彼らのコミュニティを「改良すること」を望み、彼らをもっと私たちの価値体系に引き寄せたいだろうか?そう言えば、その類の営みに適した言葉がある。迫害(persecution)、である。

 さて、私の講演の後で腹を立てて声を荒げた女性たちはある特定分野の話題に集中し、私が成功例として取り上げたコミュニティは実のところ彼女たちの基準では耐え難いものであることを示唆していた。これらのコミュニティのいくつかは、女性の産児制限をしていない、そして、子供たちのしつけのために体罰に訴えることもあり、女性に等しい権利を与えていないこともある、といったことが挙げられる。私が一夫多妻や嬰児殺しを実践しているコミュニティを取り上げなかったことは幸いだった。そんな例を示していたならば私は暴動を引き起こしていたことだろう。(私がうまくいっていると思うコミュニティには一夫多妻のコミュニティがいくつかあるが、間引きについては定かではない。)私は見合い結婚を実践している一つの集団(ロマ)を取り上げた。自身の価値体系(共通の短所)のレンズを通してのみ他者を評価する人々には、現代のアメリカ人にとっての政治的正しさという基準から外れたすべてが問題になってしまうのだ。だが、それは有効な取り組みとなるだろうか?私の方法は、これらのコミュニティをあたかもヒト科の別種(亜種)であるかのように調べることである。そもそも、あなた方の誰も彼らと交配させられることはないだろう。ライオンは一夫多妻を実践しているか?その通りだ。オスは他のオスの子である幼獣を殺してしまう。ライオンはそうしている。だからといって、ライオンたちに自分たちの価値体系を押し付けることに意味はあるだろうか?おそらく無意味だが、しかし、研究する価値はまだある。なぜならば、ライオンたちの振る舞いは進化の過程が鍛えたことであって、密猟や生息地の破壊(言い換えれば迫害)ゆえにそうなったのではなく、そして、ライオンたちはおそらくまだ成功者であるからだ。他のコミュニティよりも顕著によい結果を達成している人間コミュニティについても同様だ。あなたは彼らのことが好きではないかもしれないが、では、あなたはいったい自分を何様だと思っているのか?

 こういう話に火が着く前には、私はアメリカ人のフェミニズムの未来を主題にしようなどと考えていなかったことを認めなければならない。それを無視していても十分幸せだった。それは私の文化にはなく、私にはかかわりのないことだといつも思っていた。だが、おそらく私はそれについて少しだけ考えを述べるべきだろう。私がロシア人女性と結婚する前に、私にはアメリカ人のガールフレンドが何人かいたのだが、彼女たちは女性研究の授業によって過激化していて、いつも彼女たちの冷静さを失わせる引き金となる論点を抱えていた。その話題が出てくると、彼女たちは精神病であるかのような急変を誘発した。彼女の想像の世界の中では、私が突然、「関係」を保とうと努めているアンビバレントなボーイフレンドから、彼女だけではなく完成した政治階層全体(すなわち、女性)を抑圧する家父長的で原始的なレイプ犯に一変するわけだ。私は私の読者の中のアメリカ人女性の関心事を無視したくない。だが、もう一つのグループがあって、その人たちの関心事も私は無視したくないのだ。私の読者層の大部分はアメリカ人男性であり、合衆国内のジェンダー関連の不愉快な状態から導かれた惨事から逃れるための少なからぬ理由で、彼らは国を出たか外国人女性と結婚するかした。ある者は他の方法を試みた。アメリカ人女性と結婚したが、離婚して直ちにロシアに戻り、あらためて母国のよさに気づいたというのだ。そういう人たちはこの話題を取り上げる私を見てとてもどきどきしているのではないかと心配している。それで、本稿を読む際には、ほかならぬ死の影の谷を歩いている(註:旧訳・詩篇23.4参照)、なんて勇敢な人物なんだ、と賞賛してもらえることを望んでいる。

 女性(あるいは男性)を(みせかけの)政治的階級のように扱うことから導かれた、甚大な意図せざる結果がある。それは真の階級の線を断ち切っているということであり、下層階級に大きな不利益をもたらしている。下層階級に対するアメリカの階級闘争は、永久的ですべての範囲におよぶ全面戦争だが、これまでのとことろほぼ完勝だ。その歩兵集団の中にも、様々なより高い階級があって、学のある女性が様々な公的な地位に配置され、建て前として女性と子供の権利を擁護している間に、下層階級の学のない男性を抑圧する結果をもたらしている。そうするために、アメリカの大きすぎる犯罪産業複合体のサービスに頼って、スターリンの被追放者の一番多い時期よりも多い人口割合を収監し、そして、収容されている男性の多くは、白人以外で、教育を受けていない貧民である。このことに加え、合衆国では女性が「労働力」(馬鹿げた称賛に満ちた用語)に参入するにつれて、家庭の収入が低迷し(女性の賃金は男性の賃金から引き出された)、一方、家計のコストは上昇した(育児や料理のような家庭内のサービスが今ではお金を払わねばならなくなってしまった)。すべてこのことの結果は見るも明らかだ。合衆国は父親なしで育った子供の割合が世界一で、その多くが公的援助を受けているものの生活は不安定になっている。やがて、システムが資金を切らして、刑務所に誰かを入れておくのに年間60000~80000ドル費やすことができなくなるや、「男性の解放」(註:”men’s liberation”、キング牧師の「黒人の解放」、ウーマン・リブこと「女性の解放」という流れからピーター・シンガーが「動物の解放」を唱えたという歴史的経緯を踏まえている)に至って収容者は自由の身となることだろう。刑務所暮らしは酷い非人間的経験なので、釈放されて自由の身となった受刑者が社会で担う役割はポジティブなものにはならないが。このことは、ジェンダーを政治問題化したことの、意図せざる、しかし、予想できなくもなかった結果であるように思われる。ともかく、すべてが崩壊するわけだ。

 非難できるようになるためには、人は先ず非難したいことを超越しなければならない。私の講演のはじめに概説したように、うまくいっているコミュニティの中に探究している理論的根拠は、大きく一つのコミュニティとみなしたアメリカがうまくいっていないところにある。すべての先進国の中でアメリカは、配偶者の虐待および親らによる虐待・暴力行為による幼児死亡の発生率が最も高く、また、最も高い離婚率、最も高い十代の妊娠割合、十代の女子において最も高い性感染症の発生率、女性において最も高い鬱病の罹患率を示し、子供たちは無意味な規格化された試験のために詰め込み学習を強いられて服従するように治療されねばならず・・・と枚挙にいとまがないのだ。アメリカは社会の失敗の事例研究なのだ。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」(マタイによる福音7.3)あなたは他者を非難する前に、あなた自身がどうであるかを先ずよく考えるべきで、もし悪い状況にあるならば、そのときにはおそらく静かにするべきだろう。

 一つの潜在的な不満の種は次のようなものだ。当然私たちは非難する権利を持っている。私たちは他のくずの黒人アメリカ人とは違う!私たちは白人の上流中産階級で、アイビーリーグを卒業していて、子供たちを私立学校に通わせていて、私たちの収入は真珠のような歯のようにパーフェクト!(ちなみに、悪名高いゲイルは、五頭の馬を所有して毎日乗馬しいている一人の娘とハドソン川に50フィートのヨットを保有する娘婿がいると話していた。彼女はアメリカでも最も裕福な家族の一つに所有された2000エーカーの私有地に囲まれて暮らしている。このような話を持ち出すのは申し訳ないが、だが、とても関係のあることだと私は思っている。あなた方99%にとって、ゲイルが「あなた方のような人々」ではないことを知る必要があるからだ。)確かに1%の人々はある程度成功しているコミュニティなのだが、人々の不機嫌と溜め込んだ銃と弾薬を仮定するならば、彼らは永続するだろうか?より重要なことには、彼らの主たるコミュニティ構築の原則は「参加するにはカネを払え」「人並みに払え」ということであるように思われ、いずれにしても、とてもカネがかかるわけであり、そして、彼らは私たちにカネをくれない。それゆえ、自分たちがどんなに素晴らしいか、他のみんなはなんて酷い状況なのだろう、などと私たちに語り掛けてくることに耳を傾けることは時間の無駄であるように思われる。

 むしろ私が永続するコミュニティについて調べたい理由は、アメリカ社会全体を批評したり改善したりするためではない。それは無駄なことだ。私の目標は(適度な手段を持った)諸個人、各家庭、小さなグループに未来のための実現可能なオプションを提供することであり、その未来は、然るべき選択をしなければ生きのびているかもわからない未来なのだ。そのオプションはアメリカ社会の遺物とは別に実行可能なものであろう。さらに、そのオプションの性質は、20年もせずに広まるであろう状況の性質よって大部分が決定されるだろう。この疑問をAge of Limits会議の文脈に照らして考えてみよう。下のグラフは今では会議の出席者すべてによく知られているはずだ。それはメドウズらの『成長の限界』の標準計算シナリオにもとづくプロットである。


オリジナルの『成長の限界』(メドウズら、1972年)は、調査結果に世界の成長シナリオという時刻表を含んでいなかった。その後40年間の統計データを加えると、「この曲線に合致し」、実測の資源生産量と消費パターンにもとづく大雑把な予測が今や可能であり、継続的な人口増加にのしかかってくるだろう。

 2050年頃に成層圏に向かって急上昇する死亡数と出生数の曲線を見ていただきたい。ちょうど人口が減り始める頃に、かなり短くなる寿命を埋め合わせるために出生数が上昇しなければならないのだ。生き残りたい集団は若い頃から頻繁に産んで、少数が生き残ることを期待するようになるだろう。帝王切開術がもはや施せなくなるならば、死産の増加が予期されるはずだ。思春期から閉経(あるいは死、どちらが先に来こようとも)に至るまで、子供を産むことと子供を絶え間なく送り出して育てることは、どうにも生物学的に決まっている女性固有の役割である。このことには多くの注意、認識、支援が与えられるべきだ。だが、耳障りなフェミニストの大袈裟な物言いからは、安全にかかわる法律、地域区分の規制、職業安全に関わる法律、児童労働に関する法律、1週間の労働時間の規制、その他すべての膨らませすぎた基準、および産業社会の実現不可能な規約を構築するだけという轍を踏むことになるように思えてならない(これは一つの意見でしかない)。だからして、生活の基本への完全回帰となるわけだが、その基本は終わりなき進歩という考えに慣れ切った人々には耐え難いものだろう。(回帰しなければ、崩壊するや、即刻この世の終わりだが)疑いもなく、多くの人々は、苦労して手に入れた社会的成功ゆえに、基本への回帰に抵抗したがるだろう。そして、このことが、結果的に、この旅路を共に歩む仲間として彼女たちを選びたくなくさせるのだ。

 ここにイデオロギー的な不平はない。数学的なモデルにもとづいてコンピューターの弾き出したチャートが30年以上経って明らかに正しいと判明していることを私は解釈しているだけだ。また、(私が講演で述べた人々のように)サバイバルを堅く決心している集団は進歩的な社会の手荷物の多くをすでに捨てている(あるいは、決して搭乗しなかった)。もちろん、永続したくないコミュニティはこういうことすべてを無視することができる、自己責任で。近々の絶滅に関する限りでは、機会均等の惑星なのである。

 この話が多くの人々に心地よい安心感をまったく与えないことはわかっているが、しかし、あなたは何を期待していたのか?ディズニーランドに旅行するつもりだったのかい?では、どこへ行くかは今のところお任せするとしよう、そして、あなた次第だがコメント欄にどんな内容でも書き込んでください。(註:スパムのためにシフトムのコメント書き込み欄は閉鎖した)あなた方のシステムについて悩みを打ち明けてください、そして、それから差し迫った主題に移ることにしよう。それは、永続するコミュニティについてである。

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