Dmitry Orlov氏の『永続するコミュニティ その5:成功例』
|本稿は、Dmitry Orlov氏のブログCLUBORLOV 2013年8月6日付けの記事"Communities that Abide—Part V: An Example of Success"を訳したものである。このシリーズの最終回、フッター派の人々の生活が紹介され、Orlov氏は永続するコミュニティの秘訣に気づく。
Pete Ryan
先週の投稿ではピョートル・クロポトキンからの長い引用を取り上げたが、そこで彼は共産主義者集団の失敗の主たる理由を並べていた。すなわち、共同生活、規模の小ささ、より広い世界からの分離主義である。たしかに、アメリカの大自然の中に移り住んで、世界を遠ざけて、うまくやろうとする数十人のアナーキスト労働者の共同組織は失敗しそうだ。メンバーは互いに不和になって、サルトルの格言「地獄とは他人である」そのままに生きることになるだろう。彼らは他のどこかに新しい経験を求めて出て行く若者を失うことになるだろう。そして彼らは、「ビッグ・ブラザー」によって奴隷状態に置かれるか、「完全に主体性を奪われるか」、どちらかだろう。そこで、農業や完璧な自給自足という考えを諦めて、都市近郊での菜園を営むという考えに集中せよ、というのだ。都市は刺激的な環境で、生産物の市場と子供たちには成長したときの雇用の機会を与え得る。クロポトキンは言う、あなたが何者なのかを心に留めておきなさい、と。あなたは「修道士や年寄りの隠遁者」ではなく、資本家や不労所得階級の踵の下から逃げ出したい産業社会の労働者なのだ。
そして、クロポトキンは、広い社会の社会的不公平に対して、闘争によって元気になる生活について語っていた、それが活動的な人間には不可欠なこととして。そのような闘争は今も続いている。ちょうど先週、私たちはアメリカのファスト・フード店の労働者たちによるストライキを目撃した。彼らの賃金は公的支援を受ける資格があるくらいに低く、雇用条件は往々にして都合のよいときに働けるもののパートタイムの仕事であり、他の仕事を探すことも難しい状況に置かれていて、不公平だと彼らは考えたわけだ。これが2世紀におよぶ階級闘争の到達した結果なのである。仕事がなくなってしまったのだ。彼らの利益のすべてが消えてしまったのだ。毎週の正規の勤務時間分に加えて夜と週末の超過勤務分が支払われるという話は歴史になってしまったのだ。保証されていた老齢年金も終わった。公共教育を受ける権利は公立学校に通う権利に置き換えられて、そこで生徒たちはわずかばかり教えられて、果てしなく試験を受けさせられて、不作法を矯正されて服従するように治療を受けさせられている。
労働者が負け組ならば、資本家は勝ち組だと思うかもしれない。実際、新聞には資本家たちがこれまで以上によい状況にあり、これまで以上に富の格差が広がっている、とある。だが、株式市場の史上最高値(どれくらい続くかは?)と利益を得ている人々による顕示的消費の終わりなき誇示は、労働者を養うためのSupplemental Nutritional Assistance Programから助成されたものなのだ。別の見方をしてみよう。資本家と不労所得階級は借金という巨大な波の上でサーフィンをしているようなものなのであり、借金の担保価値はむしろ疑わしいのである。消費者の支出が70%を占める経済で、人口の80%が貧困と戯れているのだから、到底前途有望ではありえない。労働者が馬で資本家が騎手だとして、馬が死んだならば、騎手はどうなるか?思うに、歩くことになるのだ。
クロポトキンの話は失敗談なのだ。社会と経済の発展というストーリーを捨てて生産と消費に関するアナーキズムの組織と共産主義者のやり方の正しい理論を身につける産業社会の労働者が、うまくやろうとして、失敗する話だったのだ。 彼らは一つの大家族のように振る舞うことはできない。なぜならば、彼らの生き様はそういうふうではないからだ。彼らは世界を避けることはできない。なぜならば、若者が逃げ出してしまうからだ。彼らは小規模集団の中で永遠に暮らすことはできない。なぜならば、彼らはついには啀(いが)み合うようになるか、互いに奴隷的な扱いをするか、もしくはその両方になるからだ。失敗例はある程度有用だが、成功例もまた有用である。
一つの成功例はフッター派の人々に示される。彼らは主にダコタ、モンタナ州、カナダのアルバータ、サスカチュワン、マニトバ州に75から150人の小規模な農業共同体で生活する再洗礼派だ。彼らは5世紀ほど前にチロル地方で始まった。ヤーコブ・フッターは、彼らの名称の元になっているのだが、彼は説教を再び始めてちょうど3年後、殉教した。フッター派は、共産主義者的な生活様式と兵役拒否のために、何年にもわたって数多くの迫害を受けてきた。彼らは様々な国で時を過ごした。ウクライナではうまく暮らせなかったが、彼らが合衆国へと出発したときには400人だった人数も今では42000人を数えるまでになった。一時は人間集団の中で最高位の出生率となり、一家族あたり9人以上の子供をもっていた。
フッター派は完全に共産主義者であり、「すべてのものは共有」という原則を実践している。彼らの創始時のエピソードの一つに、地上にある彼らの所有物すべてを差し出して必要に応じて再分配するというものがあった。彼らは共同の家に住み、各家族が別々の部屋または一室を持つが、ある年齢を超えた子供たちはKinderhausに行って、そこで暮らす。彼らは離れの共同キッチンと食堂で一緒に食事をしている。
フッター派はまた完全にアナーキーである。彼らはLeuteと呼ばれる三つの主要グループで組織されているが、その統治構造が共同社会の域を脱することはまったくない。特定の個人に帰する責任があるが、権限のおよぶことはすべて共同社会の総意で決められ、全員一致のルールに気を配っている。責任ある立場については選挙が行われ、その結果が同数ならば、くじ引きで決められる。
彼らは外の学校に子供を通わせることを拒み、その代わりに共同社会の中に学校の校舎を建造している。彼らは授業日をドイツ語の学校と英語の学校に分けている。授業日はドイツ語の学校で始まって終わるのだが、そこでは子供たちがフッター派のすべてのことを教えられる。授業日の真ん中は、いくつかの時間は公共のカリキュラムが割り当てられ、外部の英語教師によって実施される。学年は重要ではないとみなされている。写真はなく(2番目の戒律が像を彫ることを禁じている)、楽器もなく、ラジオもテレビもなく、新聞も雑誌もない(農業や機械向けの業界紙は例外)。高等教育はない。というのは、フッター派は彼らの子供たちを14歳あるいは遅くとも15歳(カナダ教育担当によって義務づけられている)で仕事に就かせるからだ。
フッター派の若者はコロニーを出て「街で」働くことが許されている。洗礼を施して結婚するために戻ってきて、大人としてコロニーに復帰するならば(彼らのほとんどがそうする)、彼らは部屋に家具を備え付けることに貯蓄を用いることが許される。そのような外での稼ぎ以外には、フッター派の人々は個人のお金を持たない。彼らの所有するすべては実際には「教会」によって所有される。(だが、教会の建物あるいは他の物理的に教会を明示するものはなく、彼らは飾りけのない質素な信仰である)若者に外に出て戻ってくる可能性を与えることは(疑いもなく)重要な安全弁になり、若者が集団に戻ってきたときには完全なる献身であって嫌々ではないことを確かめることにもなる。そして、フッター派のコロニーを強固にしているのはこの約束の強さなのである。
フッター派教徒が他の人々よりも幸せかどうか尋ねてみることは興味深いことかもしれない。彼らの生き方は苦しくてむしろ単調な仕事の十二分な機会を提供するが、個人的な成長や気晴らしの機会はほとんどなく、個性を表現する機会もなく、そして、他者に対する責任の大きな負担が課されている。しかし、彼らにはほとんど薬物乱用、暴行、鬱病あるいは自殺がなく、精神病もほとんどなく、そして一般には人生における多くに満足しているように思われる。おそらく彼らが彼らの目標として考えていることを理解することが役に立つだろう。彼らの目標は、個人的な成功や自己実現ではなく、神の意志と考えることに応じて共同社会内で調和を作り出すことや人に割り当てられた日々を生き抜くことなのだ。
ジェンダーの役割に関するフッター派の観念は完全に16世紀のままで、この点は多くの人々に受入れがたい印象を与える。女性は声を上げないし(旦那を説き伏せるときは例外)、男性と張り合う機会を持たない。彼女たちは男性とは別のテーブルで食事する(子供たちは自身のテーブルを持っている)。彼らがアルコン(「支配者」を意味するギリシャ語)を持たず、ヒエラルキーを示さないことを別として、フッター派は家父長制度だと呼びたくなる人もいるだろう。そうではなく、ジェンダーの二形性があるということであり、それは多くの動物種が有するもので、人類も含まれるということなのだ。そういうことに心を開き続けることは多くの人々には難しいことのようだが、しかし、本当のところ私たちは、私たちの性的二形性の仲間、つまりオランウータンやゴリラの実生活を非難したりしないように、フッター派の人々に判断を下す論拠を持っていない(私たちはフッター派ではない)のだ。ジェンダーの役割の厳格な分離がフッター派の成功にとって本質的なことなのだろうか?実のところ、わからない。ジェンダーの役割についての彼らの考えは、彼らが集団として5世紀の実績があってそうしている、ということなのだ。彼らは永続きしており(だからこそここで彼らのことを話しているのだ)、彼らのジェンダーの役割についての考えは彼らと共に永続きしている。もしも彼らが突然ジェンダーの公平性という考えを強要されたならば、どうなるだろうか?彼らはおそらくそれをこれまで味わったことのない新手の迫害だと考えて、またしても人がほとんど住まない「進歩的」ではない土地に向かって進み出すことだろう。だが、彼らにとって幸いなことに、私たちがそんな無慈悲な実験を彼らに試す機会を持つことはないだろう。
さて、そこで私たちは、フッター派の共同社会が永続きし、一方、クロポトキンのアナーキスト労働者の共同社会がすべて失敗しているという事実に対処しなければならない。なぜなのか、私には一つの考えがある。参加したinvolved(あるいは、駄洒落ではないが、「進化したevolved」)人々ゆえに、である。あなたがもし共同社会を作りたいのならば、フッター派のような人々と始めるべきだ。すると、ほぼいつの時代でもうまくいくように思われる。そして、くれぐれも社会的公平性や自己実現を模索している産業社会の労働者風情とは始めないようにすることだ。こう言うと、ひどく偏ったことのように思われるかもしれない。だが、このゲーム(註:石油減耗時代の生き残り)に勝つためには何をしなければならないのだろうか?他の何者かになることだろうか?それは相当な気の迷いというものだ!私たちの大多数は、たとえなれるとしてもフッター派教徒にはなりたくないだろう(でも、なれない、フッター派は勧誘活動していないのだ)。私たちはみんな「自分探し」という不可譲の権利をもっているのではないのか?だが、私はまだ他の何者かになるプロセスについては一考の価値があると思う。というのは、今世紀中に目の当たりにすることになる経済と気候の激烈な変化は、私たちの大多数(つまり、生き残りに対処する人々)をほとんど見分けがつかなくし、「革新的」や「保守的」のような呼び名はドードー(註:マダガスカル沖のモーリシャス島に生息していた絶滅鳥類)の羽毛の色くらいの意味になってしまうだろう。すべての階層で「自分探し」の探求は絶滅へと誘う原因の最重要候補になるように思われる。グリーンランドのスカンディナヴィア人は絶滅したが、彼らは魚を食べようとしなかったからだ。かなり多数のアメリカ人は自分自身を加熱調理して死ぬのではないかと私は疑っている。なぜならばアメリカ人はエアコンの電源を切ることを拒否するだろうからだ。あなたが何者かであろうとすることを諦めることは、おそらく、生きた存在が通過し得るますます苦しい経験の一つだが、そこを越えてこそ、一度死に、また生まれ変わることができるのだ。苦しいけれど、とにもかくにもそういうことが必要不可欠だとしたらどうする?
かくして私は、永続きしてうまくいく共同社会をつくることが可能であるような気がするのだ。しかしながら、その成功は、共同社会を創設して、その理想のために自らを捧げて、そのプロセスで個を滅却しなければならなくなる諸個人には訪れないだろう。成功は共同社会それ自体に訪れるのだ。そこには個人はあり得ず、誰かが自発的に引き受ける役割と責任だけがあるのだ。だが、人権というおおげさな言葉に導かれて、自尊心と権利の感覚を植え付けられた、西洋人で法的権限を有する頑迷な諸個人が、自発的にどんな役割も責任も引き受けることは稀だろう。けれども、深刻なほどに傷んだ生態圏にそういう人々のための余地が残されていないとしたらどうだろうか?思い浮かぶのはFight Club(小説)からの引用だ。「あなたは美しく比類なき雪の一片ではない。あなたは他のみんなと同じく朽ちてゆく有機物で、私たちはみんな同じ堆肥の山の一部なのだ。」おそらくフッター派教徒は私たちが持っている以上の感覚を持っていて、それが彼らの(生活にはとても真剣な態度でありながら)死に対してほとんど無頓着な態度を示すことを説明するのだろう。彼らは自己実現や成功や地位を得るためにこの地球上に現れたのではない。彼らは、彼らが神の意志だと考えることをするために、しばらくの間、この地球上に降りて来るのであり、彼らの目標はそれを台無しにしないことなのだ。それは私たちの乱れた時代には価値ある目標であるように思われる。