新しい時代の教育科目

余り学校では教わらないのだけど、学問というのは、先人が積み重ねてきた既得権の上に成り立っているに過ぎない、という事は認識しておくべきだと思う。

私は大阪南部の片田舎に育ったので、地元の公立しか選択肢がなく、お受験なんて無かったのだけど、京都では普通に中学受験があり、小学生が夜の9時まで塾で勉強していたりするのである。

ただ、そうして人生の貴重な時間を費やして、頭に詰め込んでいる知識が、国語、算数、理科、社会で無ければならないという、論理的な根拠は無い。 例えば、人間や社会の本質であったり、人生いかに生きるべきか? という知恵であったり、コミュニケーション能力を鍛えた方が、大人になって役立つ可能性が高いと思う。

実際、松下村塾とか、昔の寺子屋での教育は、哲学とか、倫理学が主体であったと思われる。少なくとも「理科離れ」などは問題にならなかった。 結局、学問というのは、その時々の時代に確立されている既得権の集合体に過ぎない。

これは音楽や芸能の分野でもそうである。大阪府の橋下知事が、クラシックの楽団のサポートを削ったそうであるが、どうしてロックでなく、クラシックを税金でサポートしなければならないのか? と考えると「既得権」としか言いようが無いのである。

人間国宝に認定されると、年間200万円が支給されるそうであるが、能や歌舞伎は良くって、浪曲や漫才は駄目という論理的根拠を伺いたいものである。

学問の分野でも、どうして19世紀ヨーロッパの○○という作家の研究とか、××アゲハの生態の研究とかを税金でサポートすべきか? というと既得権としか答えようがない。

「学問の自由」というと聞こえはよいが、受験生や研究者は、意識的にせよ、無意識的にせよ、既得権の獲得競争に巻き込まれたり、維持拡大に貢献させられている事を認識しておくべきだと思う。

 

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