Dmitry Orlov氏の『国家の債務不履行という喜び』

 本稿は、Dmitry Orlov氏のブログCLUBORLOV 2012年7月31日付けの記事”The Joy of National Default”を訳したもので、アイルランドのシンクタンクFEASTAのDavid Korowicz氏によって記された未来を展望する上で重要な論文"Trade-Off :Financial System Supply-Chain Cross-Contagion:  a study in global systemic collapse. "(http://www.feasta.org/wp-content/uploads/2012/06/Trade-Off1.pdf)の平明な解説でもある。


Alexander Wells

78ページにおよぶ学問的で専門用語を多く含む散文を読んだわけだが、このデイヴィッド・コロウィッツによって書かれた「代償:金融システムと供給チェーンの交差感染」はすぐに読めるものではなく、軽い読み物でもない。だが、これには重要な見解が示されている。カスケード型の失敗という概念について多くの定義付けを行っているのだが、カスケード型の失敗において、金融の崩壊が容赦なく政治および経済の崩壊を招き、しかもそのプロセスを阻止したり進路を変えたりすることさえも不可能だというのだ。これはおそろしく悲観的なメッセージのように思われるかもしれない。実のところ、この論文に示された見解が健全な人に元気になるような反応を引き起こすことは想像できない。だが、事態の展開を理解することが重要だと感じている人々には、コロウィッツは多大なる現実主義を供するだろう。そして、理にかなった警告が掲げられる、「この門をくぐる者は一切の楽観を捨てよ」と。(註:ダンテ『神曲』(地獄編)の有名なフレーズの「希望」を「楽観」に置き換えている)
 

 わたしたちが悲観的な問題について考えるとき、ほとんどの人はいくつかの精神的な障害にぶつかる。まず一つ目に挙げられるのは、私たちの経験は漸進主義の一つであることだ。ある作用は等しい大きさで反対方向に反作用を生じる。撹乱の後、つり合いのとれた状態がやがて回復する。人々の慣行は永久不変で、ゆっくりと発展すると考える。二つ目に、私たちの経験が分化してしまっていることが挙げられる。議題が国家の債務不履行ならば、私たちには意見を求めるべき金融の専門家がいる。問題が世界の貿易の失敗ならば、私たちは商取引の専門家を頼るだろう。社会学者は問題すべてが社会におよぼす負の影響について私たちに語るだろう。一方、心理学者は個々の患者について語るだろうが、彼は問題の社会的な原因に取り組むことはできない。だが、全体におよぶ崩壊は多くの学問分野にまたがる問題であり、専門分化のすべての試みが太刀打ちできないのである。全体におよぶ崩壊は、社会の複雑性を低下させて、知識の高度に専門分化した領域を一掃することを約束している。三つ目には、動機の問題がある。そもそも、知的好奇心の範囲を越えて、何が実際的応用もなく気が滅入るばかりの問題の詳細な研究へと人々に時間と努力を投じさせるのだろうか?ともあれ、この話題は多くの自由な時間と病的な想像力を持つ人々を魅了する傾向がある。だが、今なお私は、出来事がどのように展開するかを予見できることには大いなる価値があると感じている。予見される不愉快な展開は不愉快なことの不意打ちよりもはるかにマシだろう。
 

 漸進主義という私たちの直感は私たちの経験の産物である。そして、突然の変化はしばしば命にかかわることなので、それを経験した人々は往々にして次の参考にはならないということを意味している。たとえば、自動車はかなり安全だと私たちは感じているが、自動車事故で死んだ人々の多くは同意しないだろう。彼らは意見を聞かせることができる立場にないのだ。また、現存する専門家のほとんどは殻に閉じこもっており、並外れた経験に乏しいつまらない生活を送っている。生死に関わる一つか二つの恐ろしいエピソードを生き残ったわずかな人は生き残ったことを幸運だと感じ、しばしばあるいは細かいことをあまり思い出したくないものだ。それゆえ共通の理解は、異常な現象は起こるが、やがて、均衡点へと戻る動きもいつものように起こる、ということだ。
 

 だが、これに反する見方もあって、コロウィッツや他の人々によって解説されているのだが、あまりにも知的すぎて抽象的である欠点を持ち、経験にもとづいたことや直感に訴えることをあまり供していないのだ。そのために、多くの人々にとっては、解説が最適な効果を発揮するものになっていない。ほとんどの人々は、窓の外を眺めて、自動車が行き交い、人々が銀行や店舗やオフィスに出入りするのを眺める。だが、そのような営みの安定性を支えていることを本当に理解するためには、動的なシステムは、システムのパラメータがある範囲に収まっているときに、恒常性を維持して衝撃からも回復する、ということを、心の目で、捉えることができるようにならねばならない。簡単なたとえ話をしてみよう。あなたはキッチンで座っている。テーブルの中央にあるカップの受け皿には、きれいな青いビー玉がある。あなたは地震の起こる地域に住んでいるとして、揺れが生じたとしよう。ビー玉は受け皿の上で転がり回るが、皿からはみ出ることはない。これが安定な領域に収まっている動的なシステムである。だが、今度はもっと大きな地震が起こったとする。天井から何かが落ちてきて、受け皿は粉々になり、ビー玉はテーブルから飛び出してしまい、ドアの下の隙間を通って転がり、階段を降りて道に飛び出て、配水管に落ちる。言い換えれば、システムは小さな衝撃を難なく処理するが、大きなショックはシステムを完璧に壊してしまうわけだ。衝撃がもっぱら大きくなることを知っているならば、小さい衝撃と大きな衝撃の線引きがどこにあるか、誰も本当にはわからないのだが、それは問題ではない。そして私たちは、そのことを知っている。
 

 では、より大きな動的なシステムに取り組むとしよう。世界規模の金融である。今の時点でついに、高度に発展した経済のすべてが、1.とても大きな負債を抱え、2.縮小しているか成長していない状態にある。これは安定な状態ではない。「なぜならば、信用には金利が課されており、信用の拡大には以前に発行された信用の利子を払うことが要求されるからだ。経済において商品及びサービスに対する信用・貨幣の価値が保持されるためには、信用・貨幣の拡大と歩調を合わせてGDPが成長しなければならない。」(p.32、註:コロウィッツ論文のページ数を指す。以下同様。)したがって、この推移の行き着く結果は、国家の債務不履行である。現在、ギリシアが国家として債務不履行の段階にある事実はもはや論争の余地がない。そして、スペイン、イタリア、アイルランドの問題は解決する見込みもない。
 

 そして、再び経済が成長し始めることもあり得ないだろう。第一に、天然資源、分けても石油に関連した問題がある。石油資源に費用がかかりすぎて成長が叶わないのだ。そして、石油は安くならない。というのは、残存する石油資源は利益があがらないもの―深海、タールサンド、シェールオイル、その他のカス―であり、生産するには費用が嵩むのである。第二に、債務規模の問題がある。あまりにも大きな債務規模が経済成長を抑えているのだ。三つ目には、成長を刺激することができないところに私たちはいる。最新の数値では、1単位のGDPの成長を達成するために2.3倍の債務の増加を伴っている。つまり、成長という観点では利益が減少するところにまで至ったのだ。すべての債務を隠すにはより大きな穴を掘る必要があり、そうやって債務の深みに入ってく。だが、どんなに速く穴を掘っても、債務は穴の隣に積み上がり続ける。政治家たちは相変わらず成長について語っているが、それは勝ち目のない競争なのである。
 

 奇妙に思われるかもしれないが、国家の債務不履行は前向きな出来事として考えることができる。なにしろ悪しき債務が一掃され、新たに健全なマネーが印刷されて、流通すると、経済は回復するのである。嘘ではない、このことはアルゼンチン、ロシア、アイスランドで現に観察されている。はてな、グローバル経済というより大きなダメなものにも同様によいことが起こり得るだろうか?おそらくそれは伝え方の問題だろう。債務不履行と言う代わりに”jubilee” (註:本稿の末尾に関連する引用を掲載した)と呼ぶことにしよう。「私たちは金融問題の感染が拡大しても政府と中央銀行の対策によって阻止されることを想像するができる。突然、すべての銀行が支払い能力を手にして・・・取引や信用貸しが再び可能になるのだ」(p.69)一つの重要な観察は、この措置は速やかにほとんど即応して講じられねばならず、前例のない国際的な調整を要求する必要があるということだ。だが、コロウィッツはこのようなことが可能だとは信じていない。「・・・ほとんど理解不可能な状況にある巨大で想像できないほど複雑な構造に私たちは閉じ込められている。・・・だのに、大きな変化を概念化することができると仮定して、そのような変化が可能だと考える文化の中で暮らしている・・・」(p. 74)
 

 それでも、国家の債務不履行は前にも起こっていて、国際金融は回復したわけで、どうして今回はそうならないというのだろうか?国家の債務不履行の影響は、世界経済の大きさに対する一国の経済規模に応じて変わるからだ。アルゼンチンの債務不履行は世界規模でみると期待はずれの出来事だった。ロシアの債務不履行はほぼ金融システム全体に影響が及び、ロング・ターム・キャピタル・マネジメント社が結果として破綻した。そして、連邦準備制度理事会が介入して救済しなければならなくなった。合衆国のサブプライム・ローン問題やリーマン・ブラザースの破綻は国際金融を崩壊の淵に追いやり、ますます大きな救済策を要求するようになった。そして今、ギリシア、スペイン、イタリアが破綻寸前で、救済策が猛烈な勢いで講じられているが、どの国も信用の回復がますます短期間だけの効果になっているように思われる。これらの衝撃をすべて勘案すると、ある時点でギリシア、スペイン、イタリアの内の一国が、世界の金融システムが「転換点を過ぎて、世界の金融システムを壊滅させるカスケード型の失敗を導く」( p. 10)原因になるだろう。各々の衝撃の影響は、システム全体の回復を早めることはない。方々で生じた国家の債務不履行(ロシア、アルゼンチン、アイスランド)の後、その回復は比較的健全な世界経済および金融システムへのアクセスに決定的に依存したものであった。ある金融危機が起こってから次の金融危機に進むので、それぞれの金融危機は比例的な反作用をおよぼすものだと仮定し続けてきた。だが、一国が比例的な領域を抜け出して、突発的な崩壊となり、そこから回復しなくなる。というのは、プロセスが不可逆だとわかっているからだ。複雑な世界規模の金融システムは、それを生み出した世界経済がもはや存在しなくなるや、再生することはないだろう。
 

 経済危機の影響を受けた国々にとても多くの銀行の倒産や救済策があるのには明らかな理由がある。銀行制度が炭鉱のカナリアのように振る舞っているのだ。銀行は経済成長に資金を融通するようにデザインされている。決して経済の縮小に融資するようにはデザインされていないのだ。貸付金のポートフォリオが不良債権化することで導かれる通貨収縮の悪化で、銀行はすぐに破産してしまう。銀行は貸付金のポートフォリオの2~9%にあたるだけの収益と株主資本を保持していたが、それでは損失を表面化しないようにするには不十分なのだ。縮小経済では、すべての銀行が立ち行かなくなるが、その進展はこれまでは救済を厭わぬ政府と中央銀行によって食い止められてきた。だが、その措置も永遠には続かない。「つまるところ、中央銀行が持っている事態の悪化を抑える道具は無限にお金を印刷する能力なのだ。そして、それが使われねばならなくなるようならば、破綻しているということになる。なぜならば通貨への信頼を壊しているからだ。」(p.59)
 

 一つの大きな困難のもとは、金融システムはその他の経済部門から孤立した状態で存在しない、ということだ。「本当の商品とサービスの交換を支えている構造は貨幣、信用、および金融の仲介によって実現されている。」(p. 17) コロウィッツは注意深く、金融機能の停止が貿易の速やかな破綻を招く過程を調べている。積み荷は掛け売りされねばならない。この掛け売りは積み荷が降ろされてから支払われることになる信用状の発行を承諾して引き受けることをいとわない地球の裏側の銀行で行われている。もしも信用状が発行されないならば、積み荷が運ばれることはない。危機にあっては、銀行は互いを疑い合うことになるので、信用状を拒否することが銀行にとって取引先リスク(信用状を発行した輸入業者の取引銀行が支払えなくなる可能性)を軽減する簡単な方策となる。その結果として、積み荷がなくなることは、数日内に市場の棚が空になること、部品不足で工場が遊休状態になること、建設現場やメンテナンス業務の停止、医薬品等の切れた病院、といったことを意味する。一週間もすれば、地方の燃料の在庫は底をつき、輸送が混乱する。現代の製造から販売までのネットワークはグローバルな供給チェーンとあまり溜め込まないジャスト・イン・タイム方式の在庫に頼っていることに留意せよ。ハイテク製品の製造はすぐに崩壊する。というのは重要な部品は一つか二つの供給業者に占められており、代替がほとんど効かないのだ。様々な混乱の経験(2011年の日本の津波、2010年のエイヤフィヤトラヨークトル火山の噴火)は、混乱のインパクトは、それが長引くのに比例して大きくなるのではなく、より加速して、回復は異常に長くかかるようになることを示している。およそ1ヶ月以内に、送電網は必需品の不備とメンテナンスの欠如によって崩壊する。おそらく、その時点で回復は不可能になるだろう。
 

 だが、たとえそうなる前でも、感染は拡大し始めている。恒常性が維持される負のフィードバックの領域は、システムがさらに均衡点から離れていくように駆動する正のフィードバックの領域と密接に関連しているのだ。例えば、「収入に対する借金の比が維持不可能なレベルにあるからだけではなく、生産活動が止まって、その将来見通しがひどいものになるにつれて、収入が崩壊することでも、金融システムは崩壊する。」(p. 68)商品およびサービスからなる実体経済は同様に悪化していくプロセスを免れない。「自由裁量だった消費から、食糧、不可欠なエネルギー、医薬品およびコミュニケーションなどの最も重要なものへと大挙して押し寄せることが予期される。」(p. 61)結果として、多くのビジネスは倒産して、さらに需要を落ち込ませ、一方で多くのインフラは機能不全になるまでメンテナンスが先延ばしされる。多くのインフラもまた成長経済を前提としてデザインされており、わたしたちには重荷になるだろう。既存の重要インフラの固定経費は負のスケールメリットを引き起こし、様々なレベルで購入できないインフラが出てくるだろう。グローバル経済のグローバルな側面はおそらく消失するのが最速であるということになるだろう。進化経済学者のポール・シーブライトを引用して、コロウィッツはこう書いている。「自身の部族の外にいる親戚ではない見知らぬ者の間の信頼は当然視され得ない。」(p.33)見知らぬ者の間の信頼関係は、ゆっくりと築かれるが、急速に壊れるものだ。縮小経済では、「自分のことは自分でやる」ということが、世界中の見知らぬ者との信頼関係を維持することよりも重要になる。
 

 ここに記されたすべてのことから引き出される教訓となる話がある。それは明白な教訓だ。高利貸しが崩壊を招いているということである。高利貸し、つまり利息をとって貸し出すことは、拡大している経済においてのみ実行可能なのだ。経済成長が停止するや、法外な債務の重荷は高利貸しを内部崩壊に導く。「金融および経済システム全体は信用の動力学とレバレッジに依存している」(p. 8)「債務は単に国家や銀行の特性というではなく、グローバル化した経済全体においてシステムへの重圧になっている」(p. 9)ダンテの『神曲』地獄篇が高利貸しを地獄の第七圏谷の一番狭苦しい円に追いやっているのも偶然ではない。だが、高利貸しが死ぬのを待って、永久に適当な穴に割り当てる以外に、私たちにできることは何だろうか?利子をとって貸したり借りたりしないことだろうか?いや、しかし、たしかに心配する必要がなくなる問題なのだろう。
 

 なにはともあれ、何よりもまず、あなたが誰だろうと、あなたがどこにいようと、あなたが床の下にどんなに多くのいんちきなカネを隠していようと、ソフトランディングを期待するな、ということだ。コロウィッツの論文を読んだ後、私はこれまで以上に、公的債務の不履行が春の雨が過ぎ去った後に太陽が再び燦々と輝くが如き出来事ではないことを確信した。コロウィッツは彼の宿題を済ましているようなのだが、彼が正しいならば、ある時点で、今はまだゆっくりとした推移であることが、日常生活の突然の不可逆で壊滅的な混乱を導くだろう。(ギリシアとスペインから届くレポートに目を通すならば、コロウィッツのいうシナリオを想像するのにもはやさほどの想像力を必要とはしない。)全体におよぶ崩壊を生き残るための実践的な適応について言えば、コロウィッツはわかりきったことを言及するくらいで、多弁ではない。だが、その言葉を私は繰り返してみよう。「最初のうち、もっとも危険にさらされるのは、手持ちのカネが少なく、家庭の備蓄も乏しく、移動が制限されていて、家族やコミュニティの結びつきの弱い人々だろう。」(p. 61)言い換えるならば、準備せよ、自らに可能性を与えるべく最善を尽くせ、ということなのだ。

 

参考:jubileeに関する記述

"the Law of Jubilee: a law that stipulated that all debts would be automatically cancelled ‘in the Sabbath year’(that is, after seven years has passed), and that all who languished in bondage owing to such debts would be released.
      ‘Freedom,’ in the Bible, as in Mesopotamia, came to refer above all to release from the effect of debt." (David Graever, ” Debt”, MELVILLEHOUSE, p.82) 

「あなたは七年の終りごとに、ゆるしを行わなければならない。そのゆるしのしかたは次のとおりである。すべてその隣人に貸した貸主はそれをゆるさなければならない。その隣人または兄弟にそれを督促してはならない。主のゆるしが、ふれ示されたからである。外国人にはそれを督促することができるが、あなたの兄弟に貸した物はゆるさなければならない。」(旧約聖書『申命記』15.1-3)

「あなたは安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。その五十年目を聖別して、国中のすべての住民に自由をふれ示さなければならない。この年はあなたがたにはヨベルの年であって、あなたがたは、おのおのその所有の地に帰り、おのおのその家族に帰らなければならない。」(旧約聖書『レビ記』25.8-10)

 

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