キリスト教の可能性

歴史を振り返って不思議に思うのは、どうして昔の日本はキリシタン大名とか、島原の乱とか、新島襄とか、キリスト教の影響が大きかったのに、今はそうでもないのか? という事である。しかし今後は必要となる考え方だと思う。

 
オカネにしても、知識にしても、技術にしても、それを有効に使うには「ベースとなる思想」が必要である。資本主義では「オカネ=正義」であったのだけど、それでは格差が広がったり、自殺が増えたり、国民が一致協力して助け合おうという機運が生まれないのである。 既得権を擁護する司法も、結果としてこの傾向を助長している。
 
教育の本来の目的は、「ベースとなる思想」の部分を叩き込む事だと思うのだけど、公立の学校では宗教教育などは禁止されていて、ひたすら知識を詰め込んでいるのである。昔は「修身の時間」なんてのがあって、どういう人間を尊敬すべきかとか、(エジソンであったり、野口英世であったりした)教えていたのだけど、最近の子供達はどういう人を尊敬しているのだろうか?
 
大阪では、以前は同和教育に力を入れていて、「にんげん」なんていう副読本が教えられていた。これは人間の本質的弱さなどを描いた物語の集まりで、今思えば聖書に近いものがあった。
 
同和教育の本質は、「お上は信用するな」、という事であったかも知れない。「上見て暮らすな、下見て暮せ」という訳で、自分より下の階級をつくって、不満のはけ口としたのである。現代でも、非正規とか、派遣とか、同様のシステムが導入されているし、肝心の教育現場にも非常勤とか居る訳で、教える方も困っている事だろう。
そのうち階級は社会的に固定化され、「異なる階級(非正規)の人とは結婚しません」、なんていう事になると思われるが、なぜ日本社会に簡単に差別構造が入り込むか? というと宗教、即ち「ベースとなる思想」が機能していないからである。日本は戦後、修身(神)を捨てて、資本主義(富)を導入したのである。「お客様は神様」になったのだ。 
 
空海などは、庶民のための学校を創ったりして思想的支柱となっていたが、最近の仏教者は社会的発言をしない。教えを社会に広めようという意欲が感じられない。お寺に入るだけで拝観料を取られる。宗教施設というより観光施設になり下がったというか、資本主義に適応しすぎである。
 
その点、教会は地域社会に開かれていている事が多い。ホームレスに炊き出しをしている所もある。ブロードバンドを使って、複数言語で世界中にメッセージをばら撒いている所もある。
イエス・キリストは、社会に愛を広めようとした訳で、オカネに依存しない生き方のモデルとなっている。本来、キリスト教と資本主義とは、相容れない考え方であり、「欲しい人にはタダでくれてやれ」というオープンソースの思想に近い。オープンソースでも生産的に生きていける事は、プログラマも証明している。
 
だれも二人の主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,一方に堅く付いて他方を侮るかのどちらかだからです。あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません。
(マタイによる福音書 6章24節)

 

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