Dmitry Orlov氏の『永続するコミュニティ  その1』

 本稿は、Dmitry Orlov氏のブログCLUBORLOV 2013年7月2日付けの記事"Communities that Abide—Part I"を訳したものである。オルロフ氏の見立てでは概してアメリカ社会はうまくいっていないが、アメリカにはうまくいっている小規模のコミュニティが内包されていることが示唆される。

Married to the Sea “Everyone” 

 私たちがどこにいて私たちに待ち受けているものは何なのかを考え抜こうとする際、とても基本的で単純で素朴な論点があり、私たちの社会は私たちのためになっているのか否か?と問うてみることができる。合衆国は、単一のコミュニティとみなしたならば、まだそのように言えるくらいうまく機能しているだろうか?合衆国は、安全、安心、帰属意識、貧困のない状況、他者を介抱し逆に介抱される実質的な機会を提供しているだろうか?それとも合衆国は、あちこちの監視状態によって見張られていて、「法と秩序」とそれとない恐怖心によって一纏めにされた、冷たく荒んでいて、敵対的な気持ちにさせる場所なのだろうか?

 合衆国は、意義のある満ち足りた仕事がとても少なくなっていて、社会からの脱落と排除の脅迫を用いて、苦役と単調な骨折り仕事の人生が強制される場所になっていないだろうか?合衆国は、罪のない人を殺す戦争のためのおもちゃ、環境破壊への加担と助成、さらに安全の美名の下に横柄ででしゃばりな警察国家を永続させようとすること、こういったことに私たちの税金を浪費しているが、私たちの価値観を共有すべく汲み取ってくれているだろうか、それとも故意に私たちの価値観を無視しているのだろうか?そして、実情がわかったならば、次の基本的で単純で素朴な尋ねるべき問いは、私たちはどうしたらいいのか?ということだ。なるほど、とりたてて人気のある政府ではない。2011年のギャラップ調査は合衆国議会が植民地時代の英国王ジョージよりも評判がよくないことを明らかにしている。同じ年、合衆国議会はウォーターゲート事件の頃の共産主義やニクソンよりも評判がよくないとワシントン・ポスト紙が書いている。さらに世論調査会社Public Policy Polling(PPP)の調査によれば、議会はゴキブリ、シラミ、根管、結腸内視術、交通渋滞、中古車のセールスマンはたまたチンギス・ハンよりも評判がよくないのだ。  

 総括するならば、単一のコミュニティとしては、合衆国はむしろうまくいっていないのだ。なるほど合衆国はプロパガンダにおいてはまだ世界の先頭に立って、多くの問題を隠蔽しているが、それ以外のことでは状況は芳しくない。世界の先進国の中で、肥満、離婚率、幼児虐待致死、10代の妊娠、投獄率、殺人率、父親なしで育てられた子どもの割合、性感染症の感染率、といった人がむしろ一番にはなりたくないと思う多くのカテゴリーでアメリカは先頭を走っているのだ。合衆国は恐怖とストレスと怒りの世界を先導しており、抗鬱病薬と抗精神病薬の処方は世界一である。自殺は傷害死亡の一番の原因で、おびただしい数の自動車事故や致命的な銃傷をも上回っている。米軍兵士は戦闘中の死亡よりも自殺でより多く死んでいる。全雇用者の3分の1が慢性的に虚弱化をもたらすストレスに苦しんでいる。雇用者の半数は不眠症、心配、鬱をもたらすストレスを経験している。ますます多くの人々が職場はとても不愉快だと感じて一斉に労働力から抜け出すことを選び、はるかに低い生活水準でも受け入れ可能な代償だと考えるようになっている。

 無数の社会問題が容赦なく著しく権利を侵害するので、この分では、「解決」の試みも空想に近い。なるほど、あなたはシラミに投票することからゴキブリに投票することへと切り換えることができるが、しかし、そんなことが救いになるだろうか?あなたは第三政党の気まぐれへと「票を捨てる」こともできる。そうしてもなお、あなたはアメリカの政治家に投票していることに変わりなく、あなたは誰を選んでも同じようなものだとわかっているのではないか。その他の人気上昇中の応戦はより幸せな国へと逃げ出すことだが、移住はとても不快で傷ましくもあり、しばしば自身とコミュニティの両方に損害をもたらす。そもそも合衆国の社会問題の多くは、合衆国が「移民の国」つまりは追い立てられた者たちの失われた魂の国という事実から招来している。だが、もう一つの応戦がある。精神的に逃れ、この地に留まりつつも、閉鎖的で分離主義者のコミュニティを形成して、周囲の社会とは異なる根本原理、価値基準、行動様式を採用して、メンバーにとってよりよい成果を成し遂げるというものだ。この取り組みはますます多くの人々によって採用されている当のものだ。

 自発的なサブカルチャーはおよそ社会に対する不満からしばしば生まれるが、不満の理由は様々だ。一つだけ例を挙げよう。最近の大学卒業生の半数以上が学位を必要としない仕事に就いているか、失業中であるか、非正規雇用状態である。若い人々のまるまる一世代(あるいは二世代)が、自分たちの社会は充実した生産的役割をあてがってくれることもなく自分たちを債務奴隷へと誘っている、ということに気づいている。チャンスがあれば、どうして彼らがその状況から抜け出したくないわけがあろうか?時間が経過しても何もよくならず、彼らの不満は募るばかりで、彼らの抜け出したいという望みは膨れあがるばかりだということを予期しておくべきだろう。

 合衆国における不満のレベルはすでに、ある者が「革命前の気運」と記している様な状況だ。それも当面は民衆を慰める様々な政府の助成で覆い隠されるのだろう。5000万人以上が今やフード・スタンプに頼り、記録的な人数が傷害年金や補足的補償所得(SSI)その他の政府援助策で暮らしている。大衆は安いあるいは無料の食糧と彼らをなだめるように企図された見世物によって懐柔され続けている。古代ローマの「パンとサーカス」が、フード・スタンプとテレビとインターネットに置き換わっているわけである。だが、このシステムはマネーの印刷と際限なく積み上がる政府債務以外の何ものによっても永続されることはない、ということが理解されねばならない。連邦政府は税収の3分の1以上の額を債務で賄っている。これは永続するやり方ではない。誰もこのやり方がいつ終わるのかを正確には予想出来ないが、そうなる日に備える必要がある。

 そして、準備するとしたならば、私たちは二つのことを理解するにちがいない。先ず、単身または核家族で行動してもほとんど何もできなということ。したがって、必要とされるのは一団、大家族、部族といったものだ。次いで、小集団を考えねばならない。100から230人の個人、いわゆるダンバー数の範囲に収まる、一般には150人前後の小集団である。この人数は、人が安定した人間関係を維持できる個体数の認知的上限にもとづいたものである。実際のところ、人類史のほとんどを通じて、人々はダンバー数をめったに超えない集団で暮らしていた。より大きな集団も可能だが、多大な犠牲を払った場合に限られる。すなわち、(政治として知られる)「社会的毛繕い」に費やされる法外な時間のかかる形式、もしくは権威主義者による課税のしくみを通して非効率になりがちな階層制社会構造のいずれかだ。このようなわけで、集団は大きくなればなるほど、まさにそれ自体の性質ゆえに、ますます非効率になって、組織の維持に資源を浪費するようになるわけだが、そうなることをより小さな集団は回避するわけである。150という人数はいろんなところで遭遇する。農村の典型的な大きさ、フッター派教徒の共同体が分かれる数、軍の一部隊の理想的な大きさ、そして(私の経験では)技術系のスタートアップ企業がスタートアップ企業であることを終える人数、つまり中間管理職やら人材のスペシャリスト、マーケティングその他会社の膨張による階層化に苦しむようになる人数だ。なお、たとえダンバー数であっても、42%以上の時間は「社会的毛繕い」に捧げられることで紐帯が築かれている。  

 そのような少数でもよくできたコミュニティは、その成員が必要とするものすべて、すなわち住宅、食、教育、医療、娯楽、仲間づきあい、社会保障、そしておそらく何よりも重要な帰属意識を提供できる。結束のあるコミュニティに帰属しているという感覚を持って生活している人々にとって、そこでは全体の利益が個人的な利益にまさるわけだが、こういうことが力の驚くべき源泉になっている。また、社会保障は、匿名的な制度から約束された小切手を受け取るという感覚ではなく、相互扶助義務の非公式な関係によって周りの人々と結びついているという感覚であり、これまた重要である。こういったサービスは第一世界の水準から見れば標準より劣るように見えるかもしれないが、第一世界の水準の約束が多くの人々にとってますます虚しく思われるようになるや、相互扶助の観点がますます議論されるようになると思われる。  

 この類の小さなコミュニティは、人の個性も含む、ほとんどの物事に制限を不可避的に課しているが、これにはポジティブな側面もある。人々は確たる制限を設けてその内側で個性を発揮したいという強い心理的願望があるのだ。逆に、制限の欠如はアノミーや自己の喪失をもたらす。自己という強い健全な感覚は、個性が他者の必要によって抑制されることを要件とするわけだ。そのような抑制なしでは、個性の表現というものは無意味なジェスチャー、自堕落な奇癖、個人的性癖の表現ないしは消費者としての好みにすぎなくなるだろう。その上もっと悪いことには、意味のある社会的制約の欠如はしばしば人を社会的に不安定に感じさせ、皮肉なことに強迫観念にかられた極端な体制順応主義の原因になるのである。こうして、私たちは親しい友人や家族のほとんどいない存在になってしまい、この根なし草状態は強制的につくられた特徴のない人物に反応するようになる。つまり、人気商品やスポーツチームへの好みを表明して、溶け込むように服を着て、履歴書に具合の悪い穴が空かないようにあらゆることをする。こうして、「馴染み」、「帰属し」、「親友」をつくることができるという架空の自己の事実上のドレイになって、それでこそ人々は一時的な社会環境(註:石油文明)で働いて、そのような環境に依存し続けることが可能になっている。

 だが、そのような依存状態はゆゆしき負債である。この一時的な社会環境に依存する人間味のないシステムはうまくいかなくなっている。社会保障は反故にされつつある約束だ。社会保障信託資金は底を突いている。財源のない負債は数兆ドルに上り、全家庭部門の財産を超えている。そして、このシステムには略奪的なものに転じている部門もある。学生ローン危機や医療部門の破産、詐欺つまり不動産業は記録的なホームレスの一方で記録的な空き住宅数を生じさせており、このような進展のすべてはそれに依存するシステムと諸個人の両方を蝕んでいる。そもそも、あらゆる二人の間に商業、金融、政府を介在させるようにデザインされたシステムによって、ほとんどの個人はすでに骨抜きにされて、偽りの「頑迷な個人」にさせられてしまい、実際のところ、他ならぬ生存を商業と政府サービスに哀れなほど依存するようになっている。

 ますます絶望するしかなく略奪的になっていくシステムの餌食にならないようにするにはどうしたらよいものだろうか?個人では、私たちはほぼ完全に力不足である。私たちは家族として対応を試みることができるが、ほとんどの家族は少人数で弱い。なにしろロマンチックでエロチックな恋愛と呼ばれる劣情にもとづいて作られた家族であり、聖なる義務、家族の誇り、種族の責務といった確たる基盤があるわけではないのだから。強固で結束力のある拡大家族は稀な存在になってしまい、新しい移民グループや様々な小さな民族集団あるいは信仰集団に見られるくらいだ。私たちも、市民農園やその他の切っ掛けを中心に据えて、形式張らない自発的に打ち解けたグループとして応答することを試みることはできるが、成員に必要なものすべて(住宅、食、教育、医療、娯楽、仲間づきあい、社会保障、帰属意識)を供することができるような結束力のあるコミュニティへと発展するものではない。必要とされるのは、新しい生活様式に基づくより完全なるシステムである。災害が起こったときには、そのようなシステムは教会、クラブ、野外集会場、その他現場の周りに自発的に形成される。いかにしてそのようなことが起こるのかは謎だが、それを導く推進力は厳しい試練のようなものであるように思われる。厳しい試練の最中に協力して生き残る人々はその経験によって一変して互いにとても強く結びつくために、他のすべての者は、たとえ自身の家族や以前の自身のアイデンティティさえも時として、背景に退くか消え去っていく。これは容易な計略ではあり得ないが、明らかにそういうことが起こるのである。

 そのようなコミュニティが、今もここ合衆国に実在することを知ったならば、驚く人がいるかもしれない。そういうコミュニティのいくつかは比較的よく知られているが、誰がそういうコミュニティに属するかを隠して見えていながらわからなくしていることもある。そのようなコミュニティはコミュニティを生じさせた出来事と同じくらい多様なのだが、驚くしかない共通点もある。私はいくつかのコミュニティを調べてきたのだが、彼らは異なる人間集団だが、ある抽象的な見方をすると、すべて同じようにも見える。すべての失敗した実験を除外するならば、私が調べた人々は、ここしばらくのこと、少なくとも1世紀いやむしろ2,3世紀のことについて、実によく知っていて教養のある人々なのだが、(新しい方法には非常に抵抗しつつ、現代以前の方法に留まろうとした結果、)彼らはすべてプレモダンだということを意味している。そのようなわけで、男女平等、セクシャルマイノリティ、教育の権利、民族の多様性、信仰の自由に対する彼らの態度は、私たちの現代的な考え方に比べるならば、耐えがたいか決定的に時代遅れなものに思えるかもしれない。

 このことが意味することは、こういったコミュニティがそのままでモデルとして供し得ると提案することは思慮不足だということだ。だが、このことは彼らの例が有益なものでなくなるということではない。というのは、彼らを結びつける共通点はジェンダーや信仰に対する考え方とは何の関係もないからだ。コミュニティの規模に応じて諸々の制約があるのだ。たとえば、100人ほどのコミュニティは、ほとんどの配慮が子どもや人口を維持する生殖可能な男女へと向けられるのであり、とりたてて活発な同性愛で大騒ぎするようなことが起こりそうにはない。一方、女性が育児により深く関係する傾向があるという明白な事実以外に、あるとしても、どんな実際的な制約が男女の役割分化の程度を決定するのかは明らかではない。時の試練に耐えた取り決めは、それらが時代遅れに見えるからといって、手放すべきではないだろう。もちろん、慣習と伝統が異国的で奇妙ならば、盲目的に繰り返す慣習と伝統の犠牲を払ってまでもドレイのように取り決めを固守すべきでもない。だが、様々な進歩的な原則に基づいた理想主義者のコミュニティについての著書は本棚に一杯になるほどあるが、それらの大多数は創設者たちの一代さえ続かなかったということが心に留められねばならない。永続するコミュニティは社会的に保守的である傾向があり、このことはほとんど一般原理の候補に挙げられることはないが、私たちが軽率に見落としていいような傾向ではない。

 さらに、これらの分離主義者の閉鎖的なコミュニティを運営するために採用しているルールは彼らによって定められたものであって、私たちによって定められたものではないのだから、彼らについての私たちの意見はとにもかくにもとても的はずれなものである。どだい彼らは問題を抱えた人々ではなく、私たちが解決策のある人間集団でもない。しかるに、彼らが私たちに感心を持つ理由はないが、私たちが彼らに感心を持つ理由はあるだろう。彼らのルールを受け入れて彼らのルールに縛られる必要はないが、彼らのようなコミュニティすべてが共通に持つ傾向を示すルールは興味深いものだろう。なぜならば、彼らのグループがうまくいっている理由を多く内包しているからであり、それを無視するのは愚かしいことだろう。かかる共通点に次回、焦点をあてよう。

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