Dmitry Orlov氏の『成功するために調教されて、食べられるために飼育されて』

 本稿は、"Reinventing Collapse"の著者であるDmitry Orlov氏のブログCLUBORLOV 2012年3月26日付けの記事Trained for Success, Breed to be Eatenを訳したものである。シフトムにて先月、オルロフ氏のエッセイ『崖の底にある藁の山』を紹介した。本稿は『崖の底にある藁の山』における、頭でわかっているはずの人が行動に移せないのはなぜか、という問いに対する最初の思索である。
 

 私は前に投稿した記事を終えるにあたって、次のような挑発的な疑問を呈した。

 
 議論を理解することができて、それを否定できないほど合理的に考える人々が、同時になぜ思考から行動へと移すことができないのだろうか?彼らを静止しているのは何なのだろうか?人類は酵母よりも明らかに賢いとして、人々がより賢明に行動できないのならば、何が問題になっているのだろうか?
 
 約束したように、この問いにここで取り組もうと思う。受け取ったコメントには随分と助けられたのだが、この問いにウゴ・バルディ教授はすぐに応えてくれた。
 
 何が起こっていて、これからどうなるのかを理解することになんか、人々はちっとも注意を払っていないよ。カネを持っている人々は、石油でいかにして金儲けするかを考えてはいるけどね。そして貧しい人々は、崖っぷちから救いの手を差し伸べてくれる奇跡の装置を夢想しているかもしれないね。これからいよいよ没落し始めるにつれて、何が起こるのかを理解することへの関心はもっと失せてしまうのだろうねぇ。
 
 ウゴ教授はまたクレイグ・ディルワース著"Too Smart for Our Own Good"を引用して、次のように要約していた。 

 ディルワース氏の著書の論旨は、私たちは個人では賢いが、集団としては賢くない、というものだ。たしかに私たちは個人的な問題を解決することには長けているけれども、その問題解決がより厄介な集団にとっての問題を生み出してコストを発生させて、挙げ句、私たちは解決不能に陥ってしまうわけだ。
 
 このことはディルワース氏自身による本の要旨にも記されている。
 
 私たちは等加速度的に自然環境を破壊しており、私たち自身の生存条件を台無しにしている。なぜこうなっているのか?本書は、私たちの生態学的に破壊的な振る舞いが実際には生物種としての本性に根ざしていることを明らかにするものである。進化論、生物学、人類学、考古学、経済学、環境科学、および歴史を参照しながら、本書は、人類の生態学的苦境を私たちの生物種としての発展に関する最も重要な科学理論の文脈の中に位置づけて、ダーウィンがやめたところから引き継ぎ、説明する試みである。ここに示される理論は私たちの700万年の歩み全体に詳細に適用されるものだ。
 
 この話が私には申し分のない出発点となった。それでは始めることにいたしましょう。
 
 読者は、自然界との完璧なバランスを保持して持続可能な様式で生活している人類を知っているだろうか?ひょっとして、あなたは知らないのではないか。人類学者でもなければ、たとえ人類学者だったとしても幸運な場合のみ、知っているくらいだろう。持続可能な暮らしをしている人類は今では地上でごくわずかになってしまったのだ。ほとんどが殺されてしまったか、「文明化」された社会(つまり持続不可能な社会)の中に寄り集められている。持続可能な生活様式の人類は研究することが困難な対象になっているのだ。なぜならば、私たちの歴史は持続不可能な生活の歴史であって、多くの過疎地で特記するに値することが何も起こらず、久しく文書が残されてこなかった時代のことを無視しているからだ。
 
 だが、記録に残っていない人々がそのままだったとしても、その結果はかなりのことにおいて同じことだっただろう。読者が聞いているところでは、自然環境とのバランスがとれて持続可能な生活を送る集団は、指数関数的な人口増加を経験しないとされる。ディルワースが言う「人類の苦境」のもととなる致命的な特徴を顕すまでに至らなかったとされる人口は、悩みを抱えてはいなかったとしても、やはり自然環境を蝕みながら再生不可能な資源を消費して指数関数的に増えて、すぐに最初の小集団ほどにまで数を減らしていたということだったのではないか。酵母の例同様、人口規模の問題ではないのだ。問題のすべては、適当な負荷において、文化的営為を始めるまでに成長した実例を二つ三つしか知らない、ということなのだ。
 
 人口の急増とクラッシュは前例のないものではない。一定環境のフットプロント内で恒常的な平衡下で生活可能な人口を越えた小集団が出現した。彼らは、狩猟に有利な石でできた鏃のついた矢、農耕に有用な蒸気機関、化石燃料資源の最後の一滴を取り出すために有用なフラッキング用毒性流体の混合物など技術発展によって、エネルギー資源の調達方法を心得ているわけだ。新たに得た力で有頂天になって、彼らはすべての注意を勇敢にもかなぐり捨てたのだ。やがてその人口は倍増し始め、各地を埋め尽くす。このプロセスにおいて、彼らは獲物が絶滅するまで狩りをし、草原を砂漠に変え、化石燃料の埋蔵量を枯渇させている。お好みの資源開発におけるエネルギーのさらなる投入が見返りの減少となって現れ始めるや、人口が減って元に戻ろうとして、以前よりも少ない人口水準で新たな恒常性の平衡条件が現れる。劣化した環境では環境収容力が低下しているからだ。持続不可能な成長に関して、現在の実験における違いが何かと言えば、地球全体を巻き込んでおり、なおかつ、ある天然資源だけではなくすべての天然資源が減っているということだ。
 
 数千年間にわたって自然環境と平衡した条件の下で生きることができた人口は、そして急いでその条件を破壊している人々は、私たちと異なる生物種ではない。彼らは別種の亜種というわけでもない。この違いを扱う上で進化論はさほど重要ではないのだ。これは文化の問題であって、遺伝的特徴ではないのだ。こういった出来事が起こる時間スケールは、人類のような長寿命の生命体にとっても、適応進化するには短すぎる。これを大慌てで進める二三の適応例がある。太陽光に応じて肌を褐色にしたり白くしたりすること、これには1000年かからない。特定の病原体に対する遺伝的な耐性を欠いた個人の減少による病気への耐性。身体の形態変化、暑い気候では熱を発散するために痩身で毛が薄く、寒い気候では太って毛深い。これら以外にも、人類は注目すべき遺伝子的な多様性をいくらか現す。
 
 
 「文化」は言うはやすしであるものの、文化的な違いが満ちているのであり、四半期ごとの収益と対前年比の成長率およびそれらの株価への影響を主たる関心事とする一世代を、意志決定においては七世代前を振り返って七世代後を慮ることを主張する人々と隔てるものは、両者の異なる思考プロセス(あるいはその欠如)であり、その違いは両者が優先するものの違いに由来する。おわかりとは思うが、四半期ごとの収支報告書によって生死の境をさまよう人間はすでに絶滅の危機に瀕しながら生き長らえているのであり、再生不可能な資源をますます速く消費しながら、指数関数曲線の上昇局面にしがみつきたがっているわけだ。
 
 上昇が止まるやいなや、彼はすぐに転落死するかもしれないが、彼はいつもカニバリズムにはじめに挑戦したがっているということなのだろう。遠き未来を考えることは、彼には有効な短期的生き残り戦略などではないのだ。彼に長期的な計画のためのいくつかの手段にもとづく持続可能な発展戦略への投資を求めることは、ナイフとフォークを持った別の男に追いかけられて今にも食べられてしまいそうな危険を感じている男を立ち止めてクロスワードパズルを手伝ってくれと頼むようなものなのだ。
 
 そしてここに難問が生まれる。保存する価値あるもの、私にとっては文化すべてのことで、アート、文学、音楽、科学、哲学、工芸と呼ばれる価値あるもの、これらすべてを保存して、持続可能で低エネルギーかつ底負荷の生活様式へと承継するには、資源を要し、したがって、相当なカネがかかってしまう。だが、カネというものは、いつも食べられはしないかと商売がたきからいつも忙しく逃げ回っていている人々に握られている。そういう人々は決して「うまくいく」ことがない策謀でいかにカネを使っているかということがわからないでいる。その策謀は(貧乏な愚か者が考えがちな)個人的な利益にはなり得るかもしれないが。「愚か者と彼のカネがすぐに分かれる」ようにするには、どうすればうまくいくだろうか?私はいくつかのアイデアを持っている。次回またはその次、この問題を取り上げたい。

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