Dmitry Orlov氏の『崩壊五段階説』および『改訂版の崩壊過程:「財布に縛られて」』

 石油減耗問題の切り口として、Joseph Tainterの”The Collpse of Complex Societies”やWilliam Catton Jr.の”Overshoot”を援用しつつ石油文明が崩壊へと至る不可逆な過程を再確認する定型があるように思われる。Dmitry Orlov氏の『崩壊五段階説(The Five Stages of Collapse )』もまた崩壊過程についての考察においてしばしば引用(最近の例)されている。ここでは、その改訂内容を記した『改訂版の崩壊過程:「財布に縛られて」(Stages of Collapse Revised: “Joined at the Wallet” )』と共に紹介したい。なお、ここに記された崩壊過程は、ドイツ軍シンクタンクの報告書58ページに記された見通しと基本的に同様のシナリオである。
 

 
崩壊五段階説 (2008222日金曜日、原文

エリザベス・キューブラー-ロスは、悲しく嘆かわしい出来事と折り合いをつけるまでに、否認、怒り、取り引き、抑鬱、受容を経るという五段階説を定義付けた。この五段階説は、愛する者の死や職業の突然の終わりなど、個人に降りかかった悲劇的喪失現象についてとてもうまく応用された。キューブラー-ロス・モデルはまた、資源の枯渇や異変というべき気候変動さらに政治の機能不全などが絡まり合う不連続な未来の不可避性に社会全体(あるいは少なくともそのことに気づいて考える社会の一部)が甘んじてゆくプロセスを映し出す際にもおそろしく的確である、と幾人かの思想家たとえば高名なジェームス・ハワード・クンスラーやより最近ではジョン・ミッシェル・グレアが指摘している。だが、これまでのところ、これらの不連続性のより具体的な中身について特定して言及されているようではない。むしろ、「厳しく長引く経済の低迷」(金融関係の雑誌の中でしばしば目にするような予言)から、クンスラーの「長期化する緊急事態」、あるいはマンネリで通俗的な「西洋文明の没落」まで、ますます話は大きく描写され、主観的判断ばかりが散見される。
 
 すでに社会および経済が激変するという見通しを受け入れる心の準備ができた者にとっては、感情的な言い回しよりも正確な専門用語を持つ方が有益かもしれない。崩壊の分類を定義することは、単なる知的訓練以上に有益だと判明するかもしれない。私たちの能力と環境にもとづいて、崩壊のある段階について、一過性のものなのか、永続するものなのか、あるいは崩壊が治まろうとしている地点なのか、などと確信をもって準備に取り組むことができる者もあらわれるかもしれない。たとえ現状のような社会経済的な複雑性を有する社会がもはや成り立ち得ないとしても、そして、テインターが『複雑な社会の崩壊』の中で指摘したように、崩壊が正しい適応的応答として生じる状況であるとしても、崩壊は自ずと人口減少を導くものであり、生存者たちは一人一人に分かれて、野生化した人が荒野に散らばって哀れに暮らすことになる、とは限らないだろう。崩壊というのは、無秩序な総崩れというよりもむしろ秩序があって組織化された撤退だと考えられるからだ。
 
 たとえば、帝国の崩壊としてもっとも最近のことで私個人のお気に入りの例なのだが、ソビエト連邦の崩壊では、ソ連を構成する各共和国のいくつかは分離運動で領土をいくらか失いはしたものの(グルジア、モルドバ)、各共和国の政治の崩壊というところにまでは至らなかった。経済のほとんどが一時停止したが、軍、公共利用施設、公共輸送手段を含む多くの機関はずっと機能し続けた。そして、多くの社会的混乱と苦痛があったが、社会全体は崩壊しなかったのだ。なぜならば、ほとんどの人々は食料、住居、医療、その他の生存上の必需品の入手が絶たれなかったからだ。ソビエト経済における指揮系統は、日常生活における必需品を市場心理の要素から切り離して、必需品についてはエネルギーの物理的なフローおよび資源への物理的なアクセスに関連づけて対処したのだ。私の著書「再発する崩壊(Reinventing Collapse)」で論じたように、ソビエトの諸事情は偶然にもソビエトの人々に崩壊に対する下準備を達成させていた。それは合衆国において現在可能な備えよりも高いレベルでの崩壊に対する下準備となった。
 
 二つの超大国、その一つは既に崩壊して、もう一つは私がここに記すように崩壊の最中にあるが、その相違点と類似点の両方についてよく考えた結果、私は大まかな推測を試みることができるように思った。ここに崩壊五段階説を説いて、私たち自身の崩壊に対する下準備の具合を評価して、その改善に資するべく、知的に重要なステップとして提供することとしよう。キューブラー-ロス・モデルのように、ある具体的な気分にそれぞれの言い回しをあてがうよりもむしろ、ここに提示する分類では五つの崩壊段階のそれぞれを現状に比して信頼が特異的に失墜するレベルに対応付けることにする。各段階は物理的で観察可能な環境の変化を導くが、それらは徐々に起こり得ることである。他方、気持ちの変化は一般にきわめて速やかに生じる。(真の愚か者以外は)誰も嘘を信じ続ける最後の愚か者にはなりたくない、というのは文化的に普遍的なことであろう。
 

崩壊過程

 
第一段階:金融の崩壊。「平常通りのビジネス」という信頼感が失われる。未来はもはやリスク評価と金融資産の保証を与えた過去とは違う、と考えられるようになる。そして、金融機関が破産する。預金が一掃され、資本調達が逼迫するようになる。
 
第二段階:商業の崩壊。「市場が供給してくれる」という信頼感が失われる。通貨が減価する、あるいは珍しいものとなる。商品価格は高騰して、輸入および小売りチェーンが支障をきたすようになる。そして、生存上の必需品が広範囲で不足する事態が常態となる。
 
第三段階:政治の崩壊。「政府があなたの面倒を看てくれる」という信頼感が失われる。生存上の必需品であって市販されているモノの入手困難を緩和するための公的な措置が奏功しなくなるにつれて、政界の支配層は正当性と存在意義を失うことになる。

第四段階:社会の崩壊。地方の社会制度は、それが権力の空白を埋めるために現れた慈善活動だろうと他のグループだろうと、資源を使い尽くす、あるいは内部抗争を経て没落するに連れて、「周りの人々があなたに気遣ってくれる」という信頼が失われる。

第五段階:文化の崩壊。人間の善良さへの信頼感が失われる。人々は「優しさ、寛大、熟考、愛情、誠実、歓待、共感、思いやり」といった能力を失う。(Turnbull, The Mountain People) 家族はばらばらになって、希少な資源を巡って骨肉の争いとなる。新しいモットーは「私が明日死ぬために、あなたは今日死んでいい」(Solzhenitsyn, The Gulag Archipelago)というものになる。共食いのような事態さえも起こり得る。


 
 多くの人々は崩壊を、どのボタンを押しても地下室(第五段階)へと進むエレベーターのようなものだと思うかもしれないが、そのような自動的なメカニズムはあり得ない。むしろ、私たち全員を第五段階へと運ぶには、途中段階のそれぞれで一致協力が得られなければならないからだ。一致協力する準備のできたすべての役者たちは、この崩壊の物語に、道化芝居よりもむしろ、気づいたとしても変えられない破滅に至る行進という古典的な悲劇の演出を与えるかもしれない。(「しまった!なんてことだ、第五段階に着いたぞ」 「では、誰を最初に食べることにするか?」「俺だ。俺は美味いぞ!」)ともあれ、プロセスの概略を述べることに致しましょう。
 
 金融の崩壊は、目下それを観察しているように、二部構成になっている。第一部は、誇張された査定、偽りの所得、そして、無限の資産インフレ、という愚かな期待にもとづいて取得した住居を維持できなくなり、一部の人々が退去を余儀なくされる場面だ。法律を厳格に適用すると、上記の人々は決して住居取得できなかったはずで、金融および政治における違法行為ゆえに住宅取得できただけだから、退去は実のところ真っ当な展開なのである。第二部は、無価値の紙切れを天に放り投げる高価なスーツに身を包む男たちのシーンで、彼らは残り少ない髪を掻きむしりながら、連邦準備銀行の階段の上で興奮している。(読者の中には無慈悲にそれを望む者がいるかもしれない)彼らは、お国言葉で「くそったれ!」のようなことを叫んでいる。そして、このシーンもまた当然の報いである。

 このような事態への政府の対応は、「罪の報い」についていくらか役に立つ説教を垂れて、ウォール・ストリートを取り囲むいろんな場所で炊き出しや簡易宿泊所を始めることだ。メッセージはこうだ。「あなたは以前借金中毒でギャンブラーでしたよね。あなたが「くそったれ」なんて言うから、長い間心を痛めることになることでしょう。私たちはあなたを二度と大金へは近づけさせませんからね。あなたはお椀を持って炊き出しに行ってください。なぜって、私たちはあなたの皿を持って来るのを忘れたからです。」こういった出来事が第一段階の崩壊つまり第二次世界恐慌を導くのかもしれない。
 
 しかしながら、こういうことは起こりそうもない。なぜならば合衆国では、政府が借金中毒でギャンブラーの筆頭だからだ。個人として私たちは理想的な有徳の人であたったかもしれないが、政府は依然として私たちの代わりに途方もない借金をしながら運営されている。公共事業や公共のサービスに資金を融通するために金融市場を必要とする地方自治体や地元名士たちから、終わりなき戦争の資金を工面するために海外からの投資に頼る連邦政府まで、あらゆるレベルの政府が衆人環視の借金体質になっているのだ。彼らは借りるのをやめられないことを知っており、それゆえ彼らはできるだけ長くゲームが続くように何らかの手立てを講じることだろう。
 
 およそ政府が今にもやりそうだと思われる唯一のことは、金利をインフレ率よりも低く設定して、価値のない紙切れを担保として引き受けて、破産同然の金融機関にマネーを注入することによって、困っている人々にさらなる信用を拡大させることだ。これはドルを希釈する効果を及ぼして、ドルの価値をさらに低下させて、時が来たれば、ハイパーインフレーションを引き起こすことになるだろう。ハイパーインフレは経済において悪すぎる出来事だが、とりわけ輸入に依存しているモノについて深刻な事態となる。輸入が干上がり、経済的に関連する諸分野が閉ざされて、私たちは第二段階すなわち商業の崩壊を経験することになる。
 
 ビジネスが操業停止になるにつれて、シャッター街が広がり、人々は多分にひどく貧乏になって、生きるためにFEMAや慈善活動を頼るようになるだろう。そして政府は、次にすべきことを考えるかもしれない。たとえば、海外に駐留する軍隊を本国に戻して、人々を直接支援する公共事業に就かせるようなことが考えられる。コミュニティを基盤とする農業プログラム、再生可能エネルギー・システムの構築、法と秩序を維持するための地域の自警団の組織化と訓練など、地方経済における自給自足体制の向上を図ることも考えられる。軍隊の技術部門は、都市周辺の以前は農場だったところに建てられたビルを倒して農地を再生したり、町中では住居を奪われた人々を住まわせるための太陽光を利用した住宅を建設したり、といったことのために出動命令が下されるようなこともあるかもしれない。同時に、住人不在の住宅資産にはしっかりと課税して その税収を恵まれない人に家賃の補助金として注ぐことで、ホームレスを減らすことができるかもしれない。多くの幸運が重なって、上記のような政策が崩壊トレンドを逆転させて、ついには第二段階に突入する前の状態へと回復できるかもしれない。
 
 上に記したことはよい計画かもしれないし、そうではないかもしれない。だが、いずれにせよ、むしろ非現実的な話だろう。というのは、合衆国は、莫大な借金を抱えており、海外の債権者の意向を尊重しなければならないからだ。海外の債権者がこの国の資産(土地、建物、ビジネス)の多くを所有しており、彼らは、依存症のアメリカ人は軍事面での大失敗、大邸宅、大型自家用車、フラット・スクリーン・テレビなどへの支払いのために子どもたちの未来を抵当に入れているということを都合よく忘れて、自給自足体制を築くことよりもむしろ借金を減らそうとして奴隷の如くあくせく働くと考えるだろう。そのようなわけで、もっと蓋然性が高いシナリオは、(利にさとい)連邦政府が海外の金融界の利害に盲従し続けるというものだ。つまり、緊縮策を課して、激烈な手段を用いて法と秩序を維持して、外資系企業の工場特区やプランテーションの建設に助成することになるだろう。そして、やがて人々が政府を持つことはさほどよい考えではないのかもしれないと考え始めるにつれて、第三段階の機が熟すのだ。
 
 崩壊の第一段階はテレビを見て観察できるとしたら、第二段階を観察するには近場の人が集まるところへと散歩するか自転車で出掛けるかしなければならないかもしれない。崩壊の第三段階に至っては、自宅の窓越しに直接見ることができるだろう。はたしてその窓にガラスがあるか否か、というレベルになり得るのだ。おびただしい流血騒ぎの後、国のいたるところが残存する権力者には立ち入り禁止区域になる。外国人債権者はついには債務の支払いがなくなるかもしれないと判断して、損失の少ないうちに手を引いて、大慌てで脱出することになる。そして、世界は合衆国なんてところがないかのように振る舞うことを決定する。なぜならば、「誰もそこへはもう行くことはない」からだ。だが、読み物としての価値は損なわれず、海外の新聞社は、ちょうどアメリカ人がソビエト崩壊後のロシアについて報道したように、アメリカ人は若者を食べているようだ、といった話を散発的に報道することになるだろう。海外に移住したアメリカ人の中には帰省しては様々なおもしろい土産話を持ち帰ってくる蛮勇もいるのだが、誰もがそのような人々のことをエキセントリックでおそらく少しいかれ頭だと思うわけだ。
 
 崩壊の第三段階は、国際的な平和維持軍の時機を得た介入および国際NGOの人道援助活動を通して避けられ得ることである。他方、崩壊の第二段階の余波で、国内の有力者たちは、崩壊の動きを食い止めて人々が受け入れてくれるようなやり方で復旧するための資源や正当性、あるいは意志さえも持ち得なくなる。

 崩壊の第三段階が進展するにつれて、機能不全に陥った連邦政府、州政府、地方行政の権力の空白は様々な新興の権力構造によって埋められることになるだろう。 旧法を強制する勢力と軍、都市のギャング、民族派マフィア、宗教カルト、そして富裕層すべてが巨大帝国の廃墟の上に彼らの小さな帝国を築こうと試み、領地と資源の獲得を巡って争うことになる。カリスマ的リーダー、成り上がり者、情け容赦のないマキャベリアンの王子、武勇、英雄たちの時代なのである。幸運な地域では、彼らの共通の強みが資源を蓄えてある種の合法的地方政府の樹立にあることを見いだすだろう。一方、権力を巡る争いが紛争の連鎖を導いて、戦争になるところもあるだろう。
 
 もはや英雄たちを支援できなくなり、彼らがますます力をなくして、ついには姿を消してしまうまでに社会が荒廃して貧しくなるや、崩壊の第四段階が始まる。社会は数えるほどの遠縁の家族と部族にまでばらばらになるが、相互扶助と防衛のために紐帯を築くことが得策だと見いだすだろう。これが生物種としての人類の存在の98.5%以上を過ごしてきた社会形態であり、人間存在の最低条件とも言い得るだろう。人類はこの程度の組織化で数千年おそらくは数百万年の間、存在可能だったのだ。多くの哺乳動物は二三百万年の後には絶滅するらしいが、とはいえ、ホモ・サピエンスにはまだ百万年か二百万年残されているということだ。
 
 崩壊前の社会があまりにもばらばらで、個人主義が浸透していて、疎外感を覚え、遠縁の家族や部族の結びつきさえ作り出せないとしたならば、あるいは物理的な環境があまりにも荒廃して貧しくなって空腹や飢餓が蔓延するようならば、崩壊の第五段階が起こり得る。この段階に至っては、より単純な生物学的至上命令が席巻するようになり、繁殖活動を営む番いの生活を守ることが最優先課題になる。家族は解散して、老人は見捨てられて、子どもの扶養は3歳までに限られる。すべての社会集団がなくなり、自身の食べものを優先して食糧を分け合うことを拒絶するあまり、配偶関係さえも一時的に解散することになるかもしれない。このことは人類学者コリン・ターンブルの著書The Mountain Peopleに記されている社会状態の話である。崩壊の第五段階に至る前の社会が人類にとっての歴史的な常態だと言うならば、崩壊の第五段階は人間性の喪失寸前へと運ぶだろう。
 
 容易に想像できるように、拱手傍観が失敗の連鎖をもたらすのだ。崩壊のそれぞれの段階は容易く次の段階へ、ときには崩壊過程が重なりながら、進んでいく。ロシアでは、崩壊過程は第三段階を過ぎかかったところで食い止められた。民族派マフィアおよび武闘派とのかなりの混乱があったものの、政府権力が最終的には勝利したのだ。私の書いた他の記事の中には、アメリカに比べて、偶然にもロシア社会に崩壊に対する耐性をつくり出した条件を書き出したものがあり、そこでその詳細に触れている。ここでは、目下のところ、崩壊に対する耐性をつくり出した要素が合衆国には欠けている、とだけ言っておきましょう。
 
 第一段階と第二段階の崩壊を食い止めようとする試みはおそらくエネルギーの無駄に終わるだろう。一方、おそらく第三段階そしてなんとしてでも第四段階を食い止めることに拘泥することは万人の利益となる。第五段階を避けようとすることは死活問題にすぎない。人口密度が高い上に危険な核施設や工業施設がある地方では、秩序を維持して惨事を避けるために外国の軍隊や政府を招請してでも第三段階の崩壊を回避することがとても重要である。
 
 第五段階を生き残るために備えることは可能だが、その試みには自信喪失になるように思われる。第三段階および第四段階を凌ぐ準備をすることがより合理的なことのように思われる。もっとも、あなたが次代を担う英雄の一人になるつもりならば、第三段階をあらわに企てることも合理的なことかもしれない。それはともあれ、読者には下準備することを練習問題として残しておくことにしよう。私の願いは、「西洋文明の没落」みたいな曖昧でまったくナンセンスな言葉に囚われることよりも、崩壊についての具体的な段階を定義付けすることで、もっと具体的かつ実りある議論が促されることになって欲しいということなのだ。
 
 

 [ 2011年11月の更新: 世界中で公的債務危機が表面化したことで、私は更新情報を出すことにした。選出された議員と選出されたわけではない役員による、破綻した金融機関を人為的に延命しようとする不断の努力のおかげで、崩壊は滝のように段階を踏むというよりも雪崩のごとく一気に起こることが分かってきたからだ。]
  

改訂版の崩壊過程:「財布に縛られて」 (2011年10月30日、原文)
 
 
 整然とした崩壊の分類法である「崩壊五段階説」は、2008年2月に公表して以来、私のブログだけでも70000回以上読まれている。今年(註:2011年)だけでも10000回以上の閲覧だから、これからも広まっていくのだろう。人々はあの記事に有用性を見いだしているに違いない。
 
 だが、崩壊は予定通りに進んでいないのだ。私があの初稿を書いた切っ掛けは、2008年の金融危機だった。それは西側の金融界のゲームを終わらせるかの様相だった。私は今なお、そうだと信じている。当時、私は2008年の「信用にまつわる出来事」についてこう書いた。
 
 このような事態への政府の対応は、「罪の報い」についていくらか役に立つ説教を垂れて、ウォール・ストリートを取り囲むいろんな場所で炊き出しや簡易宿泊所を始めることだ。メッセージはこうだ。「あなたは以前借金中毒でギャンブラーでしたよね。あなたが「くそったれ」なんて言うから、長い間心を痛めることになることでしょう。私たちはあなたを二度と大金へは近づけさせませんからね。あなたはお椀を持って炊き出しに行ってください。なぜって、私たちはあなたの皿を持って来るのを忘れたからです。」こういった出来事が第一段階の崩壊つまり第二次世界恐慌を導くのかもしれない。
 
 しかしながら、こういうことは起こりそうもない。なぜならば合衆国では、政府が借金中毒でギャンブラーの筆頭だからだ。個人として私たちは理想的な有徳の人であたったかもしれないが、政府は依然として私たちの代わりに途方もない借金をしながら運営されている。公共事業や公共のサービスに資金を融通するために金融市場を必要とする地方自治体や地元名士たちから、終わりなき戦争の資金を工面するために海外からの投資に頼る連邦政府まで、あらゆるレベルの政府が衆人環視の借金体質になっているのだ。彼らは借りるのをやめられないことを知っており、それゆえ彼らはできるだけ長くゲームが続くように何らかの手立てを講じることだろう。
 
 私は、民間の金融問題に政府が介入することは、どちらかと言えば苦しい状況を長引かせることになると考えた。私が考えなかったことは、政府が政府自らの死をも先送りすることになるということだった!あの時以来の政府介入の影響は、合衆国とヨーロッパで、金融に関する公私混同を横行させて、今では米欧双方が怪物のような酷い病を煩って、片方が死ねばもう片方も死ぬ運命のシャム双生児の様相を呈するまでになった。肉切り包丁で切断しようものなら役立たずになるだろう。他の処方でも単純に赤字の大量出血でやがて死ぬことになるだろう。
 
 おそらく彼らが早く死んでしまった方が世のためになるだろう。だが、今や経済成長は終わってしまったというのに、巨大金融と大きな政府がグローバル経済の規則正しい縮小局面に立ちはだかっているのだ。私が言う「規則正しい縮小」が意味することは、経済が健全な変化率で縮むということを意味しており、かつて健全なる成長率と考えられた変化率に対応するものなのだが、しかし、食糧や住居、安全、医療、子育てなど不可欠なものを供することによって、ほとんどの人々の生存が可能な生活様式に収まるというものだ。
 
 だが、どこにもあり得ず物理的にも不可能な経済成長を吹聴する無数の熱烈な祈祷師たちは暗示している。経済成長がなくなれば、政府と金融界が採用しているゲームを続けるための一時的なごまかしは、永遠のごまかしだったことが発覚するに違いない。永遠のごまかしでは、政府と金融界はうまくやりくりできまい。中央銀行のバランス・シートには「紙くずを隠す」という芸当が備わっているが、紙くず(不良債権)がある日価値を取り戻せば、結果オーライなのだ。成長すれば、価値を取り戻すかもしれない。だが、成長なしでは、紙くずは紙くずのままだ。もう一つのごまかしは、利用可能な救済基金の規模を拡大するために、政府保証とやらをひどく拡大していることだ。このごまかしも経済成長が再び始まれば奏功するというものだが、いずれにせよ、政府保証というものは必ずしも必要なものではないだろう。実際のところ、政府保証が付されているわけだが、その政府保証の裏付けとなる公的な基金など存在しないのだから、調達可能な救済基金の数兆ドルは見せかけでしかなく、すぐになくなる運命にある。
 
 私は、崩壊に瀕する組織の規則的な連鎖を思い描いていたわけだが、社会心理と新しい現実に適応しようとする振る舞いのために組織間にギャップがあったようだ。だが、あり得ない未来に賭けた政府と金融界の失われた4年は、再三の失策続きで痛みを倍加しながら、彼らの希望を打ち砕いている。その結果、思うに、金融の崩壊と政治の崩壊は単一の混沌とした出来事に詰め込まれることになるだろう。そして、商業の崩壊は間髪を容れないだろう。なぜならば、国際通商は国際金融に依存しており、国際的な信用が滞るや、タンカーとコンテナ船は出航しなくなるからだ。その後しばらくして、消灯時刻が訪れるだろう。
 

 崩壊五段階説はよい理論だったが、それはあくまでも私たちが幸運だったならば、という条件付きだったようだ。私はあなたがたに警鐘を鳴らすためにこの記事を書いている。完璧に理路整然とした理論を求めるなかれ。そして、ハッピー・ハロウィン。

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