石油ピーク後、どれがまともな社会像か(1)

石油ピークをはじめ、資源制約の影響が露わになってきている今日、さまざまな代替エネルギー論に基づく社会論が提起されている。太陽エネルギー社会、原子力立国、水素社会、低炭素社会、循環型社会、持続可能な社会、低エネルギー化社会など、さまざまである。


 提起の背景に、社会や文明の維持には支配的なエネルギーが必要との認識はある。しかし「エネルギーが文明のかたち」を決めるとの認識が曖昧で、石油文明がもたらしてくれてきた現代社会の構造・機能を維持したいとの願望に立脚した議論が多すぎる。願望で文明を選択できない。石油ピーク後の社会として、どれがまっとうかを正しく見極める必要がある。

その判断基準は次の2点に絞られよう。①石油は非常に優れた資源・エネルギーであり、これに替るものを人類は手に入れることが出来るかどうか。②文明のかたち(社会の構造)は、社会に支配的なエネルギーのタイプによって決まり、その核心は生産のための定置動力と、人とモノの移動動力が、どうであるかである。

 以下に、(1)石油代替エネルギー論、(2)低炭素社会論・循環型社会論、(3)持続可能な社会・低エネルギー化社会 の3回に分けて掲載する。
石油代替エネルギー論
太陽エネルギー社会論、原子力立国論、水素社会論は、どれも石油代替エネルギー論であって、それぞれの主力エネルギーを技術によって作り出して石油の代替にし、現代社会のかたちを維持しようとするものである。


太陽光エネルギーで、自動車、業務・家庭、電力等で使われている石油量(石油使用量の67%)300万バレル/日を代替しようとすると、7億kWの発電設備、5,000km2のパネル面積が試算される。これは国土の宅地面積18,000km2の28%で、建蔽率を考えると、全建物の屋根に発電パネルを設置する空想的な規模である。

山地・森林、農地を転用すると国土が砂漠化するのでできない。そして、太陽光発電設備の大工業的な製造、リサイクルには効率的な石油燃料が欠かせない。太陽光電力は維持管理が適切だと再生可能性が高いが、いぜん石油依存的であり、エネルギー密度が小さすぎるので石油文明継続の代替エネルギーにならない。むしろ、太陽エネルギーは、地産地消型自然エネルギーのひとつとして利用するのが最も適していよう。

原子力立国論は、「発電時に二酸化炭素排出がない」ことがその根拠で、現在、問題視されている「地球温暖化人為論」に立脚している。しかし、ウランの開発・輸送、改質、原子力発電所の建設、更新、発電定期検査、放射性廃棄物の輸送・管理等には、化石燃料が必要で、原発の電力だけで自立できない「石油依存」の電力エネルギーである。

原子力発電の世界的な広がりが進むと原料のウラン鉱のピーク・減耗が早まるであろうし、原発の事故や悪用の発生可能性が高まる。一般の廃熱・廃物は、基本的に大気と水生態の自然循環の中で処理されるが、放射性廃棄物はその解毒に10万~100万年かかり、その間の放射能に対する恐怖、管理負担を、原子力発電、化石燃料が全く使えなくなってるであろう数百年先の子孫に継続的に押し付けることになる。原子力発電は、使用する原料とエネルギーの面において、持続可能でない電力ということができる。

水素社会論は、石油ピークに続いて、化石燃料全体のピークが2015年~2020年到来する予測に関わり、二次エネルギーの水素ガスを、その代替エネルギーにしようとするものである。まず、水素の性質として、もっとも軽く小さい分子であって、容積が大きく、リークし易く、金属を脆くし易く、酸素と結合して爆発し易いので、日常生活で非常に取り扱いの難しいガスである。

化石エネルギーピークのときに、水素ガス製造として天然ガス利用は論外であり、現代社会を維持するには、水の電気分解による大量製造に限られる。しかし、水の電気分解で水素1kg製造するには、9kgの水、50kWhの電力が必要とされる。日本の天然ガスの年消費量8000万トンを水素に転換するだけでも、7.2億トンの水が必要であり、電力量は4兆kWhで日本の年間電力量の4倍に相当する。その膨大な電力は、何から作るのであろうか。水素の容量は日本の全面積に25m程度の厚みになる。ウランも有限資源であるし、太陽光や風力、小水力等の自然エネルギー発電量も遠く及ぶまい。水素を文明の支配的エネルギーとする水素社会論には現実性がない。

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