関東大震災を経験した母キミの記録

私の母の家族は浅草蔵前に住み、大震災に遭った。震災の悲惨な様子、家族の行動の記録を残しました。祖母キンは逃げる直前まで逃げゆく人々に握り飯を配った。「善を施せば善が来る」という心の持ち方に、昔の庶民のしなやかな強さに心打たれる。(ほぼ原文のまま) 明治33年生

震災発生 夫婦で帰路
わたしが夫の徳治と結婚一年目、突然として9月1日のあの恐るべき関東大震災が私たちを驚かせたのである。それは忘れもせぬ大正十二年九月一日は大雨だった。相変わらずタイプに忙しい。午前11時58分突然黄色のような強い太陽がはげしく照りだした時ガタガタグラグラと大地が上下動にゆれて震度7度とても立っていられない。
 丁度私はセールフレザーのケーブル部屋でまさに食堂にいくべく立ち上がった午前11時58分ドンッと突き上げてきてあとははげしい揺れに歩くも立つも出来ず 机の下、机の下といふ声にかがんでしばらはぢっとしていたが、戸外の方がよいといふので身支度にバッグなど持ってすぐ前の二重橋目がけてかけ出したのであるが、レールを越したすぐの広場は大きな地割れがしていて脇をそろそろ歩きやっと心の落ち付きかけた時 東京駅前の海上ビル5階に勤務中の彼が探しにきてくれて私は一度会社の食堂に戻りバナナをもって食事するつもりで彼と部屋の林氏、金沢氏と四人一しょにレールの上なら安心といふので斜めに銀座通りから日本橋まで出て ここから人形町へ通じる道路を横切り人形町にて二人に別れ 彼と私は父の店によったところ 父はただボーっとして大金庫の前に座っていたが 私らを見て一安心一緒に母や姉の待つ家に揺れる道をゆらゆらし乍ら歩いて戻った。
途中日本橋の西川ふとん店など大きな昔乍らの家はペシャンコに押しつぶされていた。母や姉の姪の光子も無事、卯八郎さんの家も皆無事、たがいに喜び合った。その間もひっきりなし大地はゆれ動き 電気、ガスは止まったが、水の出ている内沢山の器に汲み入れて用意した。
 
避難の準備
何はともかくと握り飯をたべてもしもの時と話し合っている時、うしろの二丁目のみつわ石鹸の工場から火が出、前は蔵前の高等工業学校の薬品から出火して私の家は二、三丁前後とも火に囲まれ、もう上野の山へ行くより外ないと思ふまでになり、家の前は上野へ上野へと逃れる人で一杯になり、その中に早川つる子さん親子が通ったのでお茶をのみ一寸お話した丈でわかれ、私らも逃げねば危険 もしや助かったら人様に何でもして上げたいと祈り乍ら小林兄の云ふ通りになって昼間焼けた蔵前のレールの上に逃げる事にきめ、まづ食料は米、うめ干、鰹節、塩、水、あとは出来る丈、衣類をリヤカー(之は卯八郎様の家のもの借りもの)、ナベ、カマ、器類等さぶとん(之は私が五か月だったのでお腹を守るため)、現金重要書類ふろしきに包んで昔の人のように背に背負い ゆれ乍ら 焼け跡の地の未だ熱いところへ それでも一家揃って非難が出来たわけでホッとした。

被覆廠の悲惨
その頃うしろの隅田川あたりでワーッといふ大きな声とも音とも云えぬ やはり声だった、あとで分かった事だが本所深川方面の人はこの土地が広かったので皆荷車や荷物を持って逃げ込み、そこに龍巻が起り火が移り中に居る人たちが猛火に包まれてしまい、その時最後の声だったといふ。被覆廠で何万といふ人がたつまきのため横死なされたとか。
夜明けと共に血だらけの人ぼろぼろになったきものを引きづって浅草へ上野へと逃げる人が通りはじめた。私の家は夜明けの五時ぼのぼのと明るくなった時焼けてしまったのである。
 
蔵前から中野へ避難行
二日二晩このレールの上の焼け跡で過し、小林兄のつれて来た荷車に従って一家一同一時中野の中村家をたよる事になり、歩き出したが、まず第一に浅草橋の上で沢山の死人の山を見、これをまたいで右に柳原河岸をまっすぐ飯田橋に来た時、雨が降り出しここで大きなお握りと体にまとうコモを頂いた時、母がいよいよおコモさんになったわね?といった時、突然大きな涙があふれて来た。歩行は未だつづき、とうとう新宿まで来た時、大きなトラックが皆を乗せて下さり、中野鍋屋横丁まで連れて下さったので大助かり、やっと目指す中村家についたら叔父さんは叔母さんの実家 真鶴に之も亦歩いて見舞いに行かれたとの事。
 
善を施せば善が来る
尊敬する母キンは、関東大震災に逢った時も臆せず父をうながして復興に励み 焼けあとへ戻るまで半年かかりました。震災の時、蔵前の高等工業の化学薬品から出火したのが一廻り土地をめぐって翌二日の午前三時頃我が家はやけたのです。その時もいよいよ逃げる迄勿論ガスも電気も止まりましたが、炊き出しをして通る人(日本橋方面から上野の山へ向ふ人)に水、湯、にぎりめしを出して誰彼の区別なく渡したものです。「善を施せば善が来る」で、我が家は一家誰1人離れる事なく探す心配なくて地震にゆすられ乍ら避難することが出来たわけで之も皆は母の日頃の善行があわてさせなかったことだと今更のように思い当るわけです。

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