集団疎開裁判に学ぶ石油減耗問題

 大久保泰邦氏の新著『みんなではじめる低エネルギー社会のつくり方:エネルギー問題を解決する15のポイント』には、「大企業や政府は、今後しばらくのあいだは従来型の経済活動や経済政策を転換することはできないでしょう。なぜなら、大企業や政府自身が、「安い石油」を大量生産・大量消費する経済活動に依存し、それを維持するための膨大な社会資本を築いたため、自らの社会資本を手放すような新しい経済のあり方を描くことができないからです。石油ピーク後の低エネルギー社会においては、地方自治体や地域に根ざした中小企業、NPO団体などが新しい経済活動の担い手になっていくはずです」(p.126)との予想が記されている。(是非とも購読されたい)

  私が疑問に思うのは、すでに財政の硬直化が叫ばれて久しいが、そのことが無関係でもあるまい、放射性降下物が付着していそうな震災瓦礫の受け入れにも積極的になってしまう地方自治体の首長とその取り巻きたちの近視眼ぶりから察するに、地方自治体が石油減耗問題のリスクマネジメントに主体的に取り組むようなことがあるのだろうか、ということだ。国・地方を問わず、エネルギー消費を積極的に抑えることは敢えて経済を縮小させることにほかならず、税収減を帰結するわけだが、はたして自ら崩壊を手繰り寄せるような施策に嬉々として取り組み始めるものだろうか。

 ハーシュ・レポート(“PEAKING OF WORLD OIL PRODUCTION: IMPACTS, MITIGATION, & RISK MANAGEMENT”, 2005年)によれば、深刻な燃料不足に備えた緩和策を築くにはピークオイル前に 20 年ほど必要だと記されていたが、洋の東西を問わず、私たちは特段の備えに取り組むこともなくピークを通り越して7年の歳月を過ごしてしまったのだ。2010年のメキシコ湾深海油田の原油流出事故のときに、オバマ大統領は100年来の化石燃料中毒を嘆いたほどであり、低エネルギー社会への移行は実に困難な事業であろう。行政運営とて熱力学の法則を免れないわけだが、石油減耗問題の深刻化に際して、はたして行政の問題解決能力にどれほどの期待を寄せてよいものだろうか。

 ところで、低エネルギー社会の準備に取り掛かる前に、私たちは放射能汚染という喫緊の問題に巻き込まれてしまった。未来のエネルギー事情を案じるのは結構なことだが、放射能汚染に目をつぶって、数年先に自身の健康状態が危うくなっているようでは本末転倒である。だが、あにはからんや、この生命を脅かす厄介な問題の対処の仕方に目を向けるならば、石油減耗問題が行政主導で善処されるかどうか、サジェスチョンを得ることになるだろう。

 そこで先ず留意すべきことは、電離放射線は生体を構成する様々な分子の化学結合を断ち切るに十分過ぎるエネルギーを有しているということだ。電離放射線によって生体内の酵素もDNAもホルモンも化学構造を壊されてしまっては本来の機能性が発現し得なくなるわけで、過度の被曝が様々な健康被害や先天異常等々の害を招来し得ることは演繹的に推論されよう。また、カリウムと同族元素ながらイオン半径がより大きなセシウムが心筋に蓄積されると、心筋刺激伝導系の構造と機能が狂って、循環器系の疾患が生じるとも言われている。無論、日本人がスラブ人に比して電離放射線に耐性があるわけなどなく、ベラルーシでチェルノブイリ原発事故の被災者への医療支援に携わった経験を有する医師で松本市長である菅谷昭氏は講演の中で「経済的な問題はあるでしょうが、チェルノブイリのように、数年以上経って深刻な健康被害が出てからでは遅すぎます。国策として、学校単位で子どもたちを疎開させるべきだと思います」と述べていた。尤も、菅谷氏が奨励するようなプロアクティブな国策よりもむしろ放射能汚染を被った地域に住み続けることを前提とした復興事業が実施されていることは言うまでもない。

 このような折りに、福島県郡山市の小中学校に通う児童生徒が郡山市の教育委員会を相手取って「ふくしま集団疎開裁判」と称される裁判が行われた。その申し立ての趣旨は、空間線量の平均値が0.2マイクロシーベルト/時以上となる学校施設での教育活動の差し止めとそれ以下の空間線量の学校施設での教育活動の実施を請求するものである。平成23年12月16日には福島地方裁判所郡山支部より申し立ての却下が言い渡され、その即時抗告事件に対しても平成25年4月25日に仙台高等裁判所より申し立ての却下という判決が下されている。その判決文は、まるでクレタ人の嘘つきパラドックスの解説のように、ロジカルに興味深い内容である。

 仙台高等裁判所の判断を要約するならば、およそ次のようなものであった。原告が主張する水準の被曝放射線量の当否はさておき、その線量の被曝を回避するためには転居するほかに手段がないことが空間線量の実測結果から明らかとされた。除染の甲斐もなく、学校外で過ごす時間をも勘案するならば、郡山市に留まっている限り、被曝回避という原告の目的は叶いそうもないのだ。そこで、転居するや相手方(郡山市)に対する教育活動の差し止め請求権は発生し得ないわけだから、被保全権利の疎明を欠いているというのだ。そして、被曝を回避するには相手方(郡山市)の管轄行政区域外に居住することを前提とするほかないわけだから、原告が管轄行政区域外の地にいながら郡山市に然るべき学校教育を行うことを求めることはおかしな話になり、また、郡山市とて管轄行政区域外に居住する者に対して安全配慮義務を負うものではない。このようなわけで、一定の線量以下での教育活動の実施を求めるとことについても、被保全権利の疎明がない、というのだ。

 また、原告が「直ちに、国・地方公共団体の費用による集団疎開措置を施さない限りこの事態は解決できず、他に実効的にとりうる手段はない」と主張したことに対して、保全の必要性が検討された。裁判官は「被ばくを免れる環境の下で教育を受けるためには・・・(中略)・・・転居する以外には他に方策がない」と明言するが、疎開を国策でやるべきだとは言わない。すべての児童生徒の総意とは言えない個人の請求に従って「集団疎開」を扱うことは判断の対象外とされた。被曝を避けるためには転居するほかないが、各自で転居して転居先での公的教育機関による教育を受けることには特に妨げもないはずだから、「他に実効的にとりうる手段はない」わけではなく、保全処分を発する必要性は認められない、というのだ。こうして訴えは退けられた。無論、国・地方公共団体の費用負担は発生しない。逆に裁判費用は原告の負担とされた。

 「教育を受ける権利」に重点を置いた申し立てであったために、また、郡山市を相手取ったために、頭のいい裁判官が論理的にうまく言い負かしたような印象を拭えない判決文なのだが、憲法第22条に謳われる居住移転の自由が侵されているわけではないのだから、被曝を回避したいのならば各自勝手に逃れよ、というのが論理的帰結だと読み取れる判決文でもある。とはいえ、原告の住民は自らの過失によって不幸を背負い込んだわけではないのだから、本当に気の毒な話である。また、原告は集団疎開を望んで訴訟を起こしたものの、集団疎開については判断の対象外とされたことから逆に、無知や土地への愛着、はたまた買収工作など、何らかの理由で集団疎開に反対する住人がいたならば、むしろ国策としての集団疎開の実現は困難を極めることが仄めかされる。

 裁判官の論理的思考力には感服するばかりだが、この判決によって放射能汚染の問題が解決するわけではない。むしろ司法の論理によって、いざという時には国も地方も頼りにならないという行政不信に陥らざるを得ないことが論理的に解き明かされたようなものであり、「民信なくば立たず」という箴言は忘れられてしまったようだ。この判決から類推するならば、石油減耗問題についても行政の無策ぶりを嘆いても救われることなどないということが推察されるだろう。訴えを起こしたところで、居住移転の自由も職業選択の自由も侵されていないのだから、上記の判例宜しく、保全処分を発する必要性があるとは認めることはできない、などと告げられることだろう。

 さて、石油減耗時代もいよいよプラトーから機能不全という下り坂へと突き進むことになる。あらゆる問題解決がエネルギーの投入・散逸を前提とする以上、被害が出てからエネルギー・コストを要する対策を打とうにも手遅れになることは想像に難くないだろう。正しくも冷たい判決から教訓を引き出すならば、天は自ら助くる者を助く、という試みに一縷の望みを抱くしかないということなのだろう。各自がプロアクティブな対策を怠れば、待ち受けているのは過酷な未来であるということを肝に銘じておいた方がよいだろう。

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