格差貧困の国から共生幸福の国への転換について(1)

1.江戸社会はどうだった?
封建時代に特有の制約、諸問題はある。しかし、江戸時代の日本、そのコアの約200年間は、士農工商の身分制を超えて知恵を競い「もったいない、ほどほどに」という生活観が隅々まで利いた社会だった。
ビジネスの知恵も、売り手良し、買い手良し、世間良しの「三方良し」が当たり前で、逸脱を認めないほど町民にもパワーがあった。おカネを「お足」とか「天下の通用」と呼び、すなわちモノを流通させるツールとの心得が徹底していた。だから、「宵越しのカネはもたない」、「カネは天下の回りモノ」と楽天的であった。紀伊国屋文左衛門が富岡八幡宮に金の神輿を3基寄贈し、吉原で小判をばら撒き、慎ましく世を去ったように、他の商人も大同小異だったようだ。年寄は生活のベテランとして、子供は宝として、非常に大事にされた。様々な芸術、芸能、民謡、民話、遊び、そして稽古事、生活科学、和算と算額が各地域の至るところで展開された。春画は娘の性教育書ででもあったとは愉快である。
これこそ、世界史上初めて実現した「カネに弄ばれない人間味ある持続循環型社会」であったと言える。
 

2.江戸時代の社会力を継承しなかった明治以降

19世紀に渡来した欧米人の多くが、このような日本社会に敬意を覚えた。また、アダムスミスの「国富論」(1789年発行)とは異なった経済ルールの世界、否、スミスの経済思想の原点「人間の本性は利己的であるが、他人に対して『同感』の原理が働く」を、先物取引を発明(大坂堂島)し、見えざる手が「三方良し」として独自に形成されてている江戸社会をみて、驚嘆したのではなかろうか。
だから、清国のように占領支配できなかったのだろう。欧米より水準の高い日本の社会力が「帝国主義国の軍事力による侵略」を防いだのだと思う。
明治維新で、欧米先進国をまねて殖産興国の路線を採ったが、薩長土肥藩閥は「田舎侍上がり」のように徳川幕府を否定するあまり、日本人の先進的創造の「エコロジー、もったいない、ほどほどに」、「三方良し」まで蔑ろにした。

3.貧困劣化する日本社会
時が進んで、平成24年の今日、日本社会はとんでもなく病み、道に迷っている。健康で文化的な生活を権利とする憲法の下で貧富の格差が拡大し、事業者が使用人を使い捨ててもお咎めなし、敗者復活のドリームがほとんどなく、ホームレスか自殺の選択肢が太くなるだけである。まさに格差と将来不安が増大続けている貧困化劣化社会である。
人を育てる教育も‘ハウツー教育’が主で、‘なぜを問いかける教育‘が軽視され、大学3年生になると就職活動に奔走しなければならない。自分のアタマで世の中のことを考える訓練もないままに大人になる。このように育てられた多くの青壮年が、今後の国際舞台で太刀打ちできるかどうか。教育の貧困はとても悲しい。
後先を考える思慮も配慮もない為政者、産業人は高速道路の劣化対策を怠り、トイレのないのに原発を作って、安全神話で封じろうとする。彼らに日本と日本人を末永く本当に愛する心がなく、自然と国際信用の劣化をも招いているとみる。道徳哲学の貧困である。

4.加工貿易一辺倒の貧困化経済
日本は工業製品の輸出と原料・資源と食料を輸入で経済を回してきた。それが良い時代が過去にあった。しかし近年の円高においても加工貿易主義が改められず、結局、競争のために多くの生産拠点が海外移転し、国内産業の空洞化が止まらない不可逆過程である。
そして歳入の減少、赤字国債の増加、労働の格差化、生活の貧困化が急増し、地域社会の過疎と荒廃が止まらない。総じて政治に知恵が働かない。 円高による余剰輸入コストで、国内地域産業の振興(農林水産、再生可能エネルギーなど)、迅速な震災復興と地域社会の再生を前広に図るべきであると思う。
しかし、機械的に「円安」へと、「中央銀行の独立性」を政治権力が踏み越えてでも切り替えようとしている。歴史に禍根を残すと予感し、思考深度が貧困だと当惑する。

5.国民の幸福を表せないGDP
地球人口が100億人へとオーバーシュートする世紀、その前に間もなく安い石油が減耗の時代になっていく。
文明の素である安い資源と食料がすでに不足してきており、最近の調査で、‘GDPが高い国ほど貧困化率が高い、国民に幸福感ない’と、GDPと幸福感が逆相関ともいえる特異な結果が報告されている。ひとり当たりのGDPが最も高いシンガポール国民が最も幸福感を覚えていない。貧困率が最も高い先進国はGDP一位の米国で、次いで三位の日本である。二位の中国は周知の格差貧困国である。石油文明終焉期に、カネで表されるGDP成長のためにヒトが過剰に働かされ、また泣かされている姿と見える。

6.ヒト・モノ・カネの逆転した歪んだ経済
「地球規模での資源と食料不足の重圧」、さらに直接的にいうと、石油供給が逼迫し、価格が高騰して、現代文明の生き血として機能劣化にあることの現れと見る。カネの力で経済を回すことでGDP数値を成長させているだけであり、本来の経済活動ではない。
国の経済政策の本来の目的は、経済学の目的と同様に、希少な資源を公正に所得配分し、よって国民を幸せにすることである。したがって、経済活動の要にヒトがあって、モノを動かす手段としてカネがある。ヒト⇒モノ⇒カネの序列が、江戸時代には健全であった。
しかし、現在は真逆の関係:カネ⇒モノ⇒ヒトの序列になり、モノがヒトを支配し、カネはモノもヒトも支配している。明らかにモノの劣化、人間疎外が深刻化するわけであり、ヒト、モノ、カネの序列を基に戻さなければ国民は幸福になれない。

7.国民幸福社会へのアプローチ  
最近、幸福とは何かという問いかけが増えている。政府内にも「幸福度に関する研究b会」が組織され幸福度指標が研究されている。
世界的には、GDH(=General Domestic  Happiness:国内幸福度)と、GPI(Genuine Progress Indicator:真の進歩指標)のアプローチが有名である。
ブータン国王は、「幸福が、国民の最重要な目的であり、国家の責任は国民が幸福を追求できる環境を創造すること」と規定して、国としての4つの基本課題と、幸福を構成する9つの要素を掲げ、国としてGDHを追及するとしている。国としての4つの基本課題は、公平な社会経済の発展、環境保全、文化の促進、良い統治としている。  9つの幸福構成要素は、心理的な安堵、健康、環境の多様性、標準的な生活、時間の使い方、文化、コミュニティ活力、教育、優れた統治であって、幸福をゴールとする要素 が階層依存関係をなしている。   
一方、GPIは、GDPをベースにして、貨幣取引外の労働・使用価値をGDPに加え、持続不可能な費用をGDPから減じて、持続可能な真の進歩指標を計算したものである。
日本は資本主義経済が高度に発達し、幸福に対する価値観も多様な社会である。‘幸福の環境とは何か’からアプローチするよりも、GDPからスタートしてGPIに辿り着く経済的なアプローチの方が、分かりやすく、実践的に有効であると考える。
以 上

次回の「格差貧困の国から共生幸福の国への転換について(2)」では、GPIについて詳しく検討する。

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