自身の「土」を知っているか?

われわれは「土」でできている?
 

人間の体は「土」からできている。イスラームの聖典でありイスラーム法の第1法源である『クルアーン』は、そう教えている。たとえば、以下の章句である。

 
《われ(アッラー)は、泥の精髄から人間を創った。》(信者たち章:12)
《創造された一切を、最も善美なものになされ、泥から人間の創造をはじめられる。》(アッ・サジダ章:7)
 
もっとも、「科学的な思考」に親しんでいる読者の多くにとっては、単なる宗教上の「物語」に聞こえることであろう。確かに、医学的にも生物学的にも、われわれの体を構成している細胞と土の成分とは異なる。
 
しかし、本当に、そういった表面的なことで「おしまい」という話でよいのだろうか。むしろ、重要なことは、その言わんとする含意にこそ想いを馳せてみることなのではないだろうか。
 
実は、同様の表現はイスラームに特有なものではない。英語にも「You are what you eat」という表現がある。「あなたが食べたものがあなた自身になっている」という解釈と共に、「あなたが食べるものであなたの人となりがわかる」という解釈も成り立つ。
 
日本人によって体系づけられた「マクロビオティック」の考え方にも、「何をどう食べるのかによって、その人自身の体も、心のありようも、さらには性格までもがかわってくる」というものがある。これらは偶然の一致なのか。それとも、人間をめぐる何らかの深淵なる真理に迫っているからこその一致なのだろうか。
 
いずれにせよ、われわれ人間は食べ続けることを宿命づけられている。食べなければ、生物としての秩序を維持することができない。だから食べる。
 
その食べ物は、穀物にせよ野菜にせよ「土」によって育まれる。肉や卵にしても、もととなる家畜が食べているのは、やはり「土」によって育まれた穀類である。「土」が変われば、収穫される作物の味も、形も、大きさも変わってくる。その意味では、「作物には土の性質が凝縮されている」のだとも言えるだろう。
 
このことをさらに発展的に、そして多少比喩的に捉えるならば、われわれは「土を食べている」、そして「その土が私たち自身を形作っている」と考えられないだろうか。少なくとも、「土」は、私たちの食糧問題を考える上で、決定的に重要な要素であることは間違いない。
 
 
「ランド・ラッシュ」的思考から脱却せよ
 
さて、「石油ピークは、食糧ピーク」である。シフトムの読者にとっては、もはや「常識」の範疇に入るフレーズだろう。
 
近代農法は、石油をふんだんに使用することで成り立っている。「石油の性質を帯びた土」は、単位面積あたりの収量を飛躍的に増大させる。しかしながら、「石油ピーク後」の時代は、こうした「魔法」を使い続けることが困難になる。収穫量もいずれピークを迎えることになるだろう。
 
「食糧争奪戦」とは、「土」をめぐる戦いであるとも言える。今年に入ってからNHKは、『ランド・ラッシュ』という番組を放映した。国際社会において、すでに「土をめぐる戦い」が始まっている、日本は乗り遅れているのではないか、という問題提起である。
 
しかし、ここで想定されているのは、相変わらず「近代農法」であり、非常に安価な「グローバル物流システム」の存在である。いずれも「石油ピーク後」の世界では苦戦を強いられることになる領域だ。
 
「土」に着目したところまでは良かったが、その後の「解決法」がいただけない。グローバル化のあり方は、早晩「変質」することになるだろう。この点が、すっぽりと抜け落ちてしまっている。
 
「ランド・ラッシュ」的な「土の囲い込み作戦」は、長期的な解決策とは言い難いのである。
 

「土地」よりも「土」が資産となる時代?
とはいえ、「土」を確保しておくことの重要性は、今後ますます高まるであろう。多くの人がこのことの重要性に気づくようになると、「ランド・ラッシュ」とは異なる形での「土」をめぐる争いが起きる可能性もある。「土地」というよりは、「土」が資産となる時代がやってくるかもしれない。
 
30年前、お金を出して「水」を買うということは、少なくとも日本人にとってなじみの薄い概念であった。しかし、先見の明があった実業家たち(金持ち連中)は、この頃、こぞって世界中の水源を買いあさった。今では、スーパーでもコンビニでも「世界の名水」がボトル詰めで堂々と売られている。そして、人びとは当たり前のようにお金を出して買っていく。
 
グローバル化の形も変質するし、「お金」の捉え方も変わるであろうことから、「水の世界」で起こったことが、そのままの形で「土の世界」でも引き起こされるとは思わない。「土の世界」では、お金儲けの手段というよりは、むしろ、「あなた自身をどう形作るのか」という、生物としてのわれわれの存在そのものに関わる問題としてクローズアップされるべきではないだろうか(もっとも、ヨーロッパの金持ち連中にとって「土の囲い込み」は、「水の次」としてちょっとしたブームになっているようではあるが……)。
 
「My 土」を探し出し、そして意識的であり続けよう!
 
今、日本では、有機野菜の宅配制度が人気を集めている。企業が契約農家から仕入れた野菜を集め、パッキングして宅配するケースもあれば、個人的に有機農業を営む農家と契約して送ってもらうケースもある。
 
前者であっても、ただ単にスーパーで「●●産」という表示だけを頼りに買うよりは、はるかに「自分自身を形作っている土」が身近な存在となるが、後者の場合は、より明確に「自分自身を形作っている土」について知ることができる。
 
私自身の話で恐縮だが、「石油ピーク」を意識し、「自分自身を形作っている土」について意識しはじめるようになったのと同時期に友人が有機農業の農家として就農したため、彼の志をサポートする意味で有機野菜を送ってもらうことにした。彼の畑にも足を運び、収穫を手伝ったこともある。「My 土」で泥だらけになった経験は、何とも清々しい思い出だ。
 
 
しかし、今年になって、宅配の契約を打ち切った。理由の1つは、彼の畑がある栃木から、私の住む愛知まで、石油を使って宅配してもらうというのは、あまり「シフトム的な営み」とは言えないのではないか、との思いが常にあったためである。幸い、就農から数年が経ち、顧客も順調に増え、初期の不安定な時期を支えるという当初の目的を達したということもある。
 
もう1つの理由は、近所に「My 畑」を借りることができ、ある程度の収量が見込めるようになったことである。加えて、近所には、名古屋でも有数のファーマーズ・マーケットがあり、地元の農家で生産された作物に簡単にアクセスできることも大きい。いまでは、日々食べているものの大半の「土」は、とても身近に存在する。
 
石油ピークを見据えながら「土」について考えていくと、自然と「地産地消」の方向性に物事が流れはじめる。キーワードである「リ・ローカライゼーション」とも親和性が高い。
 
私自身、今の自分のやり方が最終的な「終着点」であるとは思っていないが、「シフトム」の第一歩としては悪くないと思っている。これまでは、「作物を育てるという技術」を市場に任せきりにしてきたが、来たるべき未来に備えて、その技術を今一度自分たちの手元に取り戻すことは、われわれが取り組むべき課題の1つだとも考えている。
 
私にとって、「自身を形作っている土」について自覚的になることは、「自分自身が何ものであり、何ものでいたいのか」という生き方や存在そのものに関わる重要な問題である。これは、きわめて「シフトム的」な思考だとも思っている。
 
皆さんは、自身の「土」をどのくらいご存じだろうか。いったい、自分自身はどんな「土」によって成り立っているのか。こんな時代だからこそ、一度、精査する機会を設けてみても良いのではないだろうか。

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