(第3章) 人類史にみる日本文明の価値         (要約)現代石油文明の次はどんな文明か

(要約)現代石油文明の次はどんな文明か     
  (第3章) 人類史にみる日本文明の価値 

1.文明は森林・エネルギー・人智で創られる

地球上のあらゆる生命体は、環境にあるエネルギーをそれぞれに見合ったかたちで摂取します。人類も同じで、生存には、森林・エネルギー・人智が前提条件です。森林は自然が人類に与えている不可欠なエネルギー源です。そして人智の働きでもって他のエネルギーを採取します。人類は採取したエネルギーの一部を自己の再生産に消費し、剰余のエネルギーを家族や集団の成長のため、そして環境の恐怖からの集団を守り、社会を構築する創造的な活動に使用します。森林は、どの時代でも人々の衣食住を満たすために必要です。そして余剰エネルギー資源として豊かに存在していることが文明存続の要件です。しかしほとんどの文明は人智の浅はかさによって森林を枯渇させて文明崩壊しました。森林の枯渇の痕に残るのは砂漠です。人智の働きを動機付けるのが「欲求」です。本能的・利己的な欲求によって人智が支配され易いですが、理性的・利他的な人智が働いて文明が継続した社会もあります。石油文明の今日も人智の過ちの反省なく、地上で残された森林が多様な生態とともに消滅が進行し、文明を継続する環境を自ら狭めています。

 

2.未開から文明へ 

20万年前に東アフリカで生まれた新人のホモサピエスには「創造性ある精神構造」が備わっていました。6万年前から世界中に拡大し、日本へ4万年前に到来です。ホモサピエンスは衣食住にわたって技術を見出し、心の働きが発揚しました。

人類が未開から文明に移行する時代、余剰食糧を作り、余剰エネルギーを活用する新石器時代が約10,000年前に拓かれました。日本列島では縄文時代が草創期にあたります。新石器時代の特徴は、狩猟・採集型の遊動生活から牧畜・栽培型の定住生活への転換です。磨製石器・穿孔具を作る技術、土器を作る技術が発明されました。土器は、水瓶、食料の煮炊き、食料貯蔵の容器として、食生活を一変させる大発明でした。定住によって植物栽培が可能となり、肉食偏重から雑食に移行によって栄養源が革新され、生活が向上しました。日々自然の恵みと怖れに思いを抱き、安定と安全のため、自然に願いを掛ける心の活動、文明の精神的側面が発達します。土器が土偶として精神活動にも使われていきます。

 

3.自然環境と文明タイプ

文明のタイプは、定住する地域の自然環境によって、稲作漁撈型と畑作牧畜型に類型されます。本質的な差異は、漁撈と牧畜にあります。稲作漁撈型の文明は、夏に高温多雨のモンスーン気候地域で形成されていきました。日本列島の文明が典型です。  

縄文時代の日本列島では海水面上昇で平野部が狭くなり、水田稲作が困難でした。カロリー源は穀樹の植林、タンパク質は魚類と森の動物からです。森は人々の恵みの源で、森があってこそ、海の恵みも豊かという「生態循環の仕組み」を学んだと思います。稲作漁撈型の文明は、食糧生産と非食糧生産の深刻な対立がなく、文明が今日まで続いています。

畑作牧畜型の文明は、温暖で比較的乾燥した地域で発達しました。古代四大文明のすべて、ギリシャ・ローマ文明がそうです。カロリー源には小麦が適しており、タンパク質も気候に適した牧畜からです。しかし家畜のカロリー源と人間社会のエネルギー源が同じ植物のため草木を過伐します。森林が減耗すると川や海の生態も弱くなり、森林あっての降雨も減少して、灌漑畑作と牧畜に依存する「負のサイクル」にはまります。こうして、肥沃な三角地帯などで発祥した古代文明は自然を減耗・破壊しました。周辺から侵入してくる他民族との争いが多く、社会の階級化が発達した都市国家型の文明を形成しました。都市と農村の対立が容易に想像されます。畑作牧畜型の古代文明はすべて、大地を砂漠化して崩壊しました。

 

4.日本の文明

縄文文明は、上野原縄文遺跡が9,500年前に遡り、三内丸山遺跡が6,000年前です。人口は5,000年前に最高の推定26万人です。三内丸山集落が75ヘクタール、500人規模ですから、単純計算で600以上の集落が、海岸線が長い、河川流域が多い列島の丘陵地などで文明を築いていたことになります。貝塚の数は関東だけで約350あります。後氷期に生まれた日本列島は、山の幸・海の幸に恵まれた土地でした。しかし地震・噴火、気候の災害が多々ありました。海退・海進の激しい時代でした。その自然条件が、沿岸・河川で漁撈と一体の「穀樹漁撈」型の縄文文明が展開されました。

定住生活の営みは集落社会を造って管理することです。そのために必要な余剰食料を生産し、穀樹漁撈労働に従事しない余剰労働の時間を増やしていきます。食糧生産と余剰労働の方法に、個々の人々が時間配分して行う共働方法と、人毎の分担方法があります。縄文文明の場合、食糧調達が穀樹漁撈型ですから手間がかかりませんので、共働方式であったと考えます。古代四大文明のどれも、専業分業であって貴族・平民と奴隷との階級化が早くから進みました。縄文集落では集落社会における余剰時間の増加によって、食糧の増産、インフラ整備、交易、統治方法等の政治活動、そして死生観、畏敬・畏怖の自然との共生観、言葉など意思疎通法の整備等の精神的活動です。

青森の三内丸山遺跡では社会生活の様子は概ね復元されています。都市構造として中央広場、高層建物、外に通じる道路、共同作業場、貯蔵庫、ゴミ捨て場、墓地等が整備され、住宅地が計画的に配置されました。また、糸魚川の翡翠、北海道の黒曜石が発掘され、列島内と大陸沿岸との広い交易がありました。 縄文文明の遺跡から、争いや殺し合いの痕がある人骨は発掘されていないとのことです。 

縄文晩期から寒冷化し、弥生時代を通して日本列島の生態と海岸線が変わっていきました。大陸から渡来人が稲作を持ち込みました。渡来人は7世紀まで続き、総数は100万人以上といわれています。7世紀末頃の人口が400万人です。弥生文明は、縄文文明の精神的所産を継承しながら、渡来様式と融合して稲作漁撈型の弥生様式へ遷移していきました。ユダヤ教、キリスト教、仏教が持ち込まれましたが、神道との融合がなされました。 

稲作には必然、水田・水路等を施工管理する地域支配者が生まれました。弥生後期には「人が人を殺し合うことを是とする時代」になりました。大和朝廷によって国家統一がなされ、王朝として繁栄しました。多くの古墳が造られ、幾多も遷都し、寺院建造がなされました。平安時代になって、大陸の影響下から自立する道が拓かれ、列島の地形・水土に適した文明と国風文化が創られました。文明の実権は貴族へ移行し、次いで武家に引き継がれます。武家の戦乱を経て、徳川家康が戦国の教訓を基に、統一国家を建設します。

 

5.低エネルギー社会だった江戸文明

徳川幕府は、再び戦さのない「天下泰平社会」を創るために、幕藩体制を基に、「徳川平和憲法」を制定していきました。改易、参勤交代、天下普請、一国一城、武家諸法度、寺社諸法度を敷いて大名を統率支配しました。対外的に「鎖国制」を取りましたが、安全保障上の措置だと思います。17世紀は西洋列強が東南アジアで略奪が盛んで、日本の朱印船と衝突が起これば、日本の安全にとって脅威でした。

「鎖国」という不便に身を置くことによって、食糧自給と、モノと生態の循環、3Rを軸とする低エネルギー社会を、世界で初めて実現できたと思います。

古代から多くの国で社会秩序維持のために身分制度が敷かれてきており、貴族・平民・奴隷の序列が一般的でした。しかし、徳川幕府は士農工商の身分制で、食糧を作る「農」を権力(士)の直下に置き、カネに支配され易い「商」の地位を権力から切り離しました。食糧自給を実行し、権力をカネで腐敗させない国家経営の構造です。よって、江戸文明は、士農工商の「クリーンな共存」社会、資源を生態循環させる「もったいない社会」、および「三方良し」の商倫理を生み出し、これらが天下泰平の礎となったと思います。

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