武蔵野台地を豊かにした江戸文明に学ぶ

先週の24日朝、雑木林が見たくて、埼玉県新座市の平林寺に行った。関東では代表的な禅寺である。川越藩主松平信綱の子、輝綱によって、岩槻から1663年に移築というから、玉川上水の開削(1653年~)と、その分水の野火止上水開削(小平~志木:1655年)の後、武蔵野台地が、いくらか豊かさを取り戻している頃である。平林寺には13万坪におよぶ境内林(国指定の天然記念物)があり、その雑木林の景観に心が豊かになる。ちょうど紅葉真っ盛りで、爽秋の空気の中のその色の鮮やかさに心を奪われた。これが、江戸文明が育てた生活林、武蔵野雑木林なのだと感慨した。
武蔵野台地と玉川上水
多摩川は、数十万年前、青梅から下流域に扇状地を発達させた。その後、富士山と箱根山噴火による火山破屑物の堆積と河川による侵食が繰り返された。武蔵野台地は河川開析で残った台地のひとつであり、侵食で開かれた低地との境が崖線(ハケ)になっている。
ハケ下の地域は、多摩川分流の運ぶ山の栄養分に富んだ水を適切に田畑に引き、稔り豊かな田園地帯である。集落が発達し、城郭跡も多く見られる。
一方、多摩川上水系が出来るまでの武蔵野台地は、ハケ下の田畑広がる農村の草刈場で、人数少ないところであった。表土が関東ローム層で、水捌けが良すぎて乏水地帯で、田畑、森林の育たない、恐らく鳥のねぐらもない原野だった。台地は、殆ど何もない原野だったので、上水開削工事は非常に楽だった。全長16km、幅・深さとも1mを40日で、ほとんど人力で仕上げられたという。
養分のバードポンプ
上水のお陰で、台地が開墾され、野菜畑が作られ、樹木も生育した。すると、鳥が低地と台地を行き来するようになり、飛鳥は低地で食し、台地で種子付の糞を撒いた。童謡「七つの子」を意訳すると、「カラスは低地で食し、台地のねぐらで子に餌を与え、糞をした」ということになろう。よって、上水からの山の養分では不十分な台地の土壌養分は増し、豊かな畑と雑木林が広がった。
江戸時代に限らず、昔の人は、鳥の行動を自然から学んでいた。鳥が種子と養分という物質を高い場所へ運ぶ仕事をしてくれる。この運び上げの仕事システムには、石油も、自動車も不要である。これを、「養分のバードポンプ」と呼ぶことができよう。流体ポンプ、ヒートポンプを借用した術語として。
人糞と干鰯の役割
江戸の人口が増えるにつれ、近郊の畑での増産を求められ、コメの増産のために新田開発がなされた。畑・田んぼでの増産には、肥料が決定的に重要である。そこで、登場したのが近郊向けの人糞肥料、遠地にも売れる干鰯である。野菜と人糞との循環システムは、養分循環の中に人間が自ら組み込んだシステムである。干鰯肥料によって、田畑と海浜がひとつの循環システムに創成された。干鰯が田畑の稔りを豊かにし、田畑からの水は河川から海へ流出し、前浜の養分を豊かにする、というシステムである。江戸前寿司が生まれ、町人の食が豊かになったのも、そのお陰である。その町人の糞は畑へリサイクルされる。それでもって、江戸は、世界一、清潔な都市だったという。
生態循環を含む幅広いエネルギーの科学が必要
 仕事すると、エネルギーを使い、廃熱あるいは廃物というエントロピーが発生する。廃熱は最終的には、空気と水の大循環によって宇宙空間に捨ててくれるのが、地球のすばらしい能力である。廃物・燃焼後のカスには、地球が受け入れ難いモノと、土壌の中などで処理できるものに分けられよう。放射能と塩素化合物は地球環境と生命体が受け入れることのできない物質である。その他の廃棄物は、概ね、土壌の中で、微生物の類が分解し、養分のかたちで新たなエネルギーを作り出してくれる。微生物などが、エネルギー循環のエンジン役を担っている。
 こうして見ると、再生可能エネルギーを、発電や熱への利用に限って考えるのは、余りにも了見が狭すぎる。生態系の循環、さらには人間の知恵によって促進させる生態循環が、忘れられている。石油文明が余りにも便利なので、江戸時代の人々の知恵すら、受け継ぐことを忘れ、生態循環を断ち切ってまで石油に依存している。虫も鳥も、タニシいない沈黙の田畑になった。
 生態循環エネルギーは人間が周りの生物と共存し、利用し合うエネルギー循環システムであり、EPR(エネルギー収支比)が高そうだし、入力も低エネルギーで良さそうである。
 文明と生活を支えるエネルギーを、既成の概念にとらわれず、先端技術にとらわれず、先ずは先哲の生活の知恵に学びながら、広く科学することが、石油ピークに入った今、必要だと痛感する。

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