石油ピークと資本主義の歴史

素人考えを書いているだけですので、事実に反する点があればご指摘ください。

江戸時代の主な旅客輸送サービスは、駕籠(カゴ)であった。
二人の人間がかついで、一度に一人の客しか運べない。
明治になると、人力車が発明され、駕籠は急速に駆逐された。
これがイノベーション(技術革新)である。

人力車も一度に一人しか運べないが、一人で引っ張って、駕籠より早く運べる。
人力車夫は、一人で駕籠かき二人分の賃金を独り占めすることが出来た。
これを、イノベーションの結果生産性が高まったと言う。
別の言葉で言えば、生産性とは他人から仕事を奪う能力である。

イノベーションとは、今までより少ない人間が、今までより早く、より大量に、同等以上の商品・サービスを生産・提供できるようになることである。
イノベーションの結果、旧来の生産者やサービス提供者が市場から駆逐され、より少ない人間が、市場利益を独占するようになる。
それが資本主義的利潤の源泉である。
利潤は、生産性の格差によってもたらされる。
こうして市場にイノベーションと市場独占の競争が生まれた。

ここで、もしも江戸時代と明治時代のマーケットの規模が同じであったら、駕籠かきは二人に一人が失業したはずである。
ところが幸いなことに、旅客輸送のニーズの方も増えたので、駕籠かきだった人は人力車夫になることで失業せずに済んだ。
競争が始まったことで、人々がより忙しくなり、より早く移動しなければならない人が増えたからである。
また食糧が増産され、医学が進歩したことで人口爆発が始まった。
競争と人口増加で市場規模が拡大したのである。
汽車や自動車が発明されると、一人の人間が運べる旅客数も輸送速度も飛躍したが、人力車夫は運転手の仕事に付くことが出来た。
イノベーションがイノベーションを加速させ、雪だるま式に新しい市場(=仕事)を作り出したのである。
言い換えると、市場独占の競争そのものが仕事になっていったのである。

近代以前において、仕事とは、人びとのニーズに応えるために働くことだった。
働くことは、「傍(はた)を楽にする」ことだと言われた。
「働かざる者、食うべからず」と言われたのも、働くことが人助けだったからである。
しかし今では、人の仕事を奪い、人をより忙しくさせると言う傍迷惑なことが仕事になっているのに、上のようなスローガンを文字通り受け止めることが出来るだろうか。

市場競争はイノベーションだけによらない。
会社の営業部と称するところは、官公庁で言えば贈収賄に当たることを業としてやっている。
また大企業は、企業献金を通じておおっぴらに贈収賄に当たることをし、政治家を動かして自分たちに有利な法制度や規制を作らせる。
マスコミやテレビも彼らの支払う広告費にぶら下がっているから、彼らの主張をオウムのように繰り返して大衆を洗脳する。
こうして財・政・官・マスコミが一体となって、大企業の私利を図り、大衆の利益に反することをやり始める。
資本主義的市場競争は、決して万人にフェアな競争ではない。
市場は次第に大企業に独占されていく。

競争が激化するほど忙しくなるのだが、イノベーションの普及速度も速くなる。
いくら働いても、市場の成長が止まり、市場競争者間の技術水準に格差がなくなれば、だれも儲からなくなる。
労働者が寝る暇も惜しんで過労死寸前まで働いても儲からなくなる。
こうして国内市場が行き詰まると、海外の未成熟市場に利を求めるしかない。
これが”自由貿易論”である。

戦前には帝国主義諸国は、軍隊を送って未開発国の政府を倒し、他国の市場や資源を強権で支配しようとした。
国内市場が飽和し、経済成長が行き詰まったためである。
しかし今の大企業の受益層はインターナショナルになっており、そんなことはしない。
する必要がなくなったのである。
各国大衆に、自由貿易こそ彼らの利益であると、洗脳すれば目的を達するのである。

では大企業の目的とは何か。
何のために自由貿易を推進するのか。
それを知るには、誰が大企業から利益を得ているのかを知ればよい。
まずアメリカの調査では、株式からの利益の4割以上を上位1%の富裕層が、8割以上を上位5%の富裕層が得ているそうである。
日本もヨーロッパも多分大差ないだろう。
経団連に名を連ねる大企業の株主シェアの5割は外国人である。
つまり、日本の大衆が「フラッグキャリアー」だと思っている「日本の」大企業は、日米欧アラブなどの、人類の1%にも満たない富裕層の利益代表なのである。
彼らの関心事は、自分の投資している会社が利益を増やし、成長し続けることだけである。
経団連の言いなりの日本政府や、経団連の主張を受け売りするだけの日本のマスコミは、一体誰の利益のために存在するのだろうか。

自由貿易を推進することは、どういう結果をもたらすだろうか。
人口が増え、世界市場自体が成長した時代には、わが国では大企業が外貨を稼いでくれたおかげで、大衆も恩恵を受けることが出来た。
NHKの「プロジェクトX」と言う番組をご覧になった方はお分かりであろうが、日本も最初から技術大国ではなかった。
自動車も電気製品もアメリカ製品の物まねであり、日本製品といえば「安かろう悪かろう」の代名詞である時代があったのだ。
日本の技術者はアメリカ製品を分解して調べたり、工場に落ちていたネジくぎ1本をひそかに持ち帰って研究をかさねたのである。
国内市場は、高い関税で保護されており、日本企業はアメリカの技術を盗んでキャッチアップしていった。
1973年までは、ドル円相場が固定されており、円安と相対的に安い労働賃金を背景に、「安くて良い品」が欧米へ怒涛のごとく輸出された。
「日本人は物まねは得意だが、独創性が欠けた民族である」と言うような欧米人の僻(ひが)みを、日本人が真に受けて得々と語っていた。
このころ作られたのが、マイケル・ムーア監督の「ロジャーと私」である。

http://video.google.com/videoplay?docid=3042764332802155444&hl=en#

アメリカの製造業の空洞化と没落が始まったのである。
被害を受けたのは、末端の労働者だった。
解雇されたアメリカの労働者が、日本製の自動車を叩き壊すパフォーマンスがテレビで流されたが、日本人は誰も同情しなかった。
しかしそのころのアメリカと今の日本が重なって見えるのは私だけだろうか。

先進国ではスポーツが大変盛んである。
会社や学校に部活動があり、地区予選、県大会、全国大会などがあって、競技も男女別、体重別になっていて、だれでも自分のレベルに合わせて楽しむことが出来る。。
自由貿易論というのは、スポーツで言えば、オリンピック以外の競技会は認めないと言うようなものである。
競技も男女混合無差別級だけしか認めない。
そこへ世界最強の超ド級の猛者たちが血相を変えて殴りこんでくるのだ。
どういう結果になるだろうか。

そして石油ピーク後の時代は、世界の人口と市場が収縮する時代である。
もはや奪うべき国外市場も存在しなくなる。
いまや大企業は、飢えたタコが自分の手足を食って生き延びようとするように、末端の労働者と大衆を犠牲にして生き延びようとしている。

考えてみよう。
われわれは本当に「トヨタ」や「キャノン」がなければ、自動車もデジカメも作れないのだろうか。
自由貿易のなかった江戸時代に作られた、なんでもない茶碗などのありふれた庶民の日用品が、当時の西洋人にはいちいち見事な美術品のように見えたのである。
名もない職人が自分の仕事に誇りを持って、お客のためにひとつひとつ丹精込めて作ったからである。
もちろん競争がなかったわけではないだろう。
しかし生産性では図れない豊かさがそこにあったのではなかろうか。

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