人類文明の足跡に日本文明の価値を観る(2)

6.日本列島に花咲いた縄文文明

氷河期の海水面は現在より約100mも低く、日本の地は大陸と陸続きでしたが、急激な温暖化で約10,000年前に列島になりました。縄文時代はその後、2000年から1000年の周期で気候変動により海水面が変動しました。海進期には現在よりも数mも高く、縄文の集落は海岸段丘や扇状地に造られました。各地で多く発見されている貝塚がその証しのひとつです。海退期には海岸平野が広がりましたが、土地の塩害、地震津波の恐れから水田稲作は縄文晩期まで導入できなかったと思います。その代り山麓での穀樹栽培を取り入れ、沿岸・河川での漁撈と一体の「穀樹漁撈」型の縄文文明を展開されました。

集団で定住生活を営むことは、集落社会をつくり、維持管理することです。自分と家族の食衣を得るための狩猟・採集が中心の遊動生活と比べて、大量の余剰エネルギーが必要です。定住集落の人々の共働で可食植物を栽培して、集落社会のインフラを施工し、維持管理する必要があります。縄文集落の人々は技術を工夫し、知恵を豊かにして、必要な大量の余剰食料を生産し、人口と「穀樹漁撈」労働に従事しない余剰の時間を、次第に増やしていきます。

社会の自由時間の使い方として、食糧生産と他の仕事を個々の人々が時間配分して行う方法と、人ごとに分担して行う方法があります。前者は共働方式、後者は職業方式ということになります。縄文集落では、共働方式であったと考えます。

集落社会における自由時間の増加によって、遊動生活には全く考えられなかった諸事に、人間の脳力が挑戦するようになりました。食糧の安定的増産、集落のインフラ整備、交易等の経済的活動、さらに統治の方法と規則つくり等の政治活動、そして死生観、畏敬・畏怖の自然との共生観、言葉など意思疎通法の整備等の精神的活動です。

縄文文明の場合、食糧調達が「穀樹漁撈」型ですから、栽培に農耕のような手間がかかりません。多くの住民は栽培等の労働と職人労働等の両方を時間配分して共働で進めていたようで、階級差別がありませんでした。古代四大文明のどれも、専業分業であって貴族・平民と奴隷との階級化が早くから進みました。

青森の三内丸山遺跡では社会生活の様子は概ね発掘され、人口500人程度の水準の高い社会が復元されています。都市構造として中央広場、高層建物、外に通じる道路、共同作業場、貯蔵庫、ゴミ捨て場、墓地等が整備され、住宅地が計画的に配置されました。また、糸魚川の翡翠、北海道の黒曜石が見つかっており、日本列島内と大陸沿岸との広い交易がありました。 

歴史書を見ると「縄文文化」とされてきましたが、最近、「縄文文明」との考えが見られます。私も、世界の古代四大文明と比較して、優れて「縄文文明」であると思います。

7.縄文文明と古代四大文明はどこが違うか

世界の古代四大文明の始まりは6,000年前です。一方、「縄文文明」は、山内丸山遺跡が6,000年前ですが、上野原縄文遺跡は9,500年前に遡ります。日本列島の人口は5,000年前には最高位の約26万人とのことです。三内丸山集落が75ヘクタール、500人規模ですから、単純計算で600以上の集落が、海岸線が長い、河川流域が多い日本列島の丘陵地、海岸高台などに成立し、日本縄文文明を築いていたことになります。貝塚の数は関東だけで約350あります。

四大文明はどれも人工灌漑畑作と牧畜による食糧確保のため、自然を減耗・破壊することで余剰食糧を拡大しました。周辺から侵入してくる他民族との争いが多く、奴隷農民、支配層(平民、貴族、皇帝)といった社会の階級化が発達し、都市国家型の文明を形成しました。恵みの劣化する自然にどう対処し、支配するかは、つねに支配者の焦眉の課題だったと思います。

一方、日本の縄文時代は後氷期の海進で島国となり、海岸線と脊梁山脈が長く、山の幸・海の幸の自然に恵まれた豊かな土地でした。一方、地震・火山噴火、気候の災害が多々ありました。縄文時代の10,000年を通じて、自然は畏敬と畏怖なるものとして崇め、集落住民が心をひとつに自然と付き合う「自然と人の共生の文明スタイル」が続いたと考えます。縄文時代の10,000年間、多くの集落がありましたが、日本人は戦争しなかったとのことです。人類史上、縄文の日本人だけだったと思います。誇らしいことです。

古代四大文明のDNAはその後、‘神と人間を自然の上に置く’哲学および一神教に引き継がれ、近代合理主義哲学として現代文明の一翼になっています。一方、「縄文文明」のDNAは、‘人は自然に生かされている、神は万物に宿る’多神教の神道と、絆を大切にする思想として引き継がれています。

8.森林の存続と文明の盛衰

文明は、食料生産労働と、道具や土建の職人労働等とが分立することから始まりました。分立の仕方として、人々が兼業して協業する方法と、人々が専業として分業する方法があります。「縄文文明」の場合、多くの住民は農耕等の労働と職人労働等の両方を時間配分して共働で進めていたようで、階級差別がありませんでした。古代四大文明のどれも、専業分業であって貴族・平民と奴隷との階級化が早くから進みました。

古代四大文明では、分業の拡充と余剰食糧の増大が相乗効果をもたらし、定住集落は都市へと発展し、手工業、通商、土木建設、学芸、教育、祭司、執政、軍事等に従事する「市民(シビリアン)」が誕生しました。農業漁撈から自立し、大量の余剰エネルギーを獲得できた市民は、農耕を支配して都市を統治するシステムを構築し、文化・技術を発展させた都市社会=シビライゼーション(文明)を構築しました。

古代四代文明の基本は、大量の奴隷人力と森林資源が生み出す余剰エネルギー(主に余剰食糧)にあり、市民がそれを支配していました。市民は利便と欲望の拡充のために余剰エネルギーの拡充を図り、その利用で都市インフラを高めました。これが文明の発展であって、経済成長と人口増加をもたらしました。しかしその反面、文明の発展が資源の大量浪費に依存したため、森林資源の枯渇化、農地劣化を招きました。ギリシャ・ローマの市民は学芸と技術を発展させましたが、有限資源の森林と耕地の循環再生を怠ったため、余剰エネルギーが減耗していきました。文明維持の余剰エネルギー確保のために、北アフリカ、さらにゲルマン、アラブの世界へまで版図拡大(グロバリゼーション)を進めましたが、功をなさず古代西洋文明は衰退・消滅しました。

人力と森林資源を余剰エネルギーとする文明は、世界四大文明、マヤ文明、イースター島文明等に見られるように、森林資源の枯渇、耕地の劣化による飢餓によって消滅しました。しかし古代文明の周辺地域の大方では、森林と農業が持続的に再生され、緩やかな歩みで生活と文化が継承されて近代に至っています。

「縄文文明」の三内丸山集落は、5,500年前から始まり、最盛が4,500年前ごろで、4,000年前頃に衰退しました。原因はまだ解明されてないですが、気象変動による可能性が高いとのことです。よって森林の生態が変わり食糧が減少していったのかもしれません。

縄文文明は、厳父なる自然、慈母なる自然に委ねて静かに幕を閉じましたが、その精神的所産である文化は、弥生文明へと引き継がれ、さらにその後の日本の各時代の文明へと引き継がれていきました。最近の縄文考古学によると、10,000年続いた縄文文明の遺跡から、争いや殺し合いの痕がある人骨は発掘されていないとのことです。 古代世界にない平和的な文明の交代でした。

9.ポスト縄文文明

縄文晩期から寒冷化し、弥生時代を通して、日本列島の生態と海岸線が変わっていきました。そして春秋・戦国の時代の大陸から渡来人が稲作を持ち込みましたが、合わせて病原菌もやってきたといわれています。よって縄文人は晩期には10万人以下に減少したようです。一方、大陸と朝鮮半島から徐福伝説にみられる集団を含めて渡来人増え、その生活・様式が浸透してきました。7世紀の飛鳥時代まで続き、渡来人の総数は100万人以上といわれています。7世紀末頃の人口が400万人とのことですから、この期間に、日本人の「血が入れ替わった」観がします。しかし、弥生文明は、縄文文明の精神的所産(文化)を継承しながら、渡来様式と融合して稲作漁撈型の弥生様式へ遷移していきました。ユダヤ教、キリスト教、そして仏教を渡来人が持ち込みましたが、縄文時代からの「神は万物に宿る」とする多神教を捨てる環境にはなく、融合させて神仏習合を創り出していったと考えます。 

弥生時代は食糧生産が寒冷化で広がった平野部での稲作中心になっていきました。そのため、水田・水路整備等の土木を施工管理する地域支配者が生まれていきました。結局、弥生後期には日本列島の中に100余の小国が分立し、‘人が人を殺し合うことを是とする時代’に初めてなりました。大和朝廷によって国家統一がなされ、古墳時代から奈良時代にかけて大王王朝国家として文明が繁栄しました。この間、多くの古墳が造られ、王朝の度重なる遷都、仏教寺院と仏像建造によって、日本の各地で森林の過伐が進みました。しかし、温帯モンスーンのため森林成長が速いので砂漠化に至らなかったのは幸いでした。神社が鎮守の森とセットであることには救われる思いです。

平安時代になって、それまで大陸の模倣と影響下にあった政治、文化から自立する道が拓かれました。大陸とは一線を画した列島の地形・水土に適応した文明・文化です。縄文文化、弥生文化を引き継いでいます。文明の実権は貴族へ移行し、次いで武家に引き継がれます。武家の戦国時代を経て、武家による統一国家が徳川幕府によって、戦乱の起こらない仕組みで建設されました。

10.循環型社会を実現した江戸文明

≪天下泰平の道≫

戦国武士の大将は、誰もが自分が天下を治めたいとの野心を持っていました。その乱世の最後を勝ちとった徳川家康は、「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。こころに望おこらば、困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもへ。勝事ばかりを知りてまくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるゆりまされり。」という言葉を残しました。彼が逆境と差別を忍耐で乗り越えて野心の天下人に至った、その人生訓が見事に表れていると思います。そして徳川幕府は、家康、秀忠、家光の三代で、再び内戦のない、民が安全に生業に励めるような「天下泰平社会」を、幕藩体制を基盤に創っていきました。

幕藩体制とは‘幕府を最高統治機関とし、大名にある程度の自治を与えて領地(藩)を運営させ、米を年貢とする制度’といえます。それをベースにして改易、参勤交代、天下普請、一国一城、武家諸法度、寺社諸法度を敷いて大名を統率支配しました。対外的に「鎖国制」を取りました。その理由にキリスト教布教禁止とのことですが、封建時代には異宗教・異宗派禁止の国は珍しくありません。「鎖国」は、むしろ国の安全保障上の措置であったと思います。17世紀は西洋列強が東南アジアに東インド会社等を通じて略奪貿易が盛んでした。日本の朱印船貿易との衝突が日本の安全に脅威という環境認識からだと思います。

「鎖国」という不便に身を置くことによって、かえって‘モノと生態の循環型社会を世界で初めて実現できた’のだと思います。徳川家康の人生訓からして納得いくことです。士農工商の秩序関係を身分制によって図りましたが、実際には士農工商の共存が、その知恵によって、資源を生態循環させる産業構造とその生活文化、いわば「もったいない文明」を生み出したと思います。「もったいない」とは‘自然に感謝し、足るを知り、粗末にしない’と、理解しています。

≪江戸もったいない文明の点描≫

江戸文明には封建時代に特有の制約がありました。士農工商の身分上位の者ほど、家父長的制約が強いものでした。下位の者の政治的行動は許されませんでした。しかし、江戸時代の日本、そのコアの約200年間は、政治的には平穏な時代で、士農工商の身分制を超えて知恵を競い「もったいない」という生活観が隅々まで利いた社会でした。ただ、地震、噴火、小氷期寒冷化といった自然災害が重なり、地学的には大変苦労の多い時代でした。 
 ビジネスでは‘売り手良し、買い手良し、世間良し’の「三方良し」が当たり前で、商家がどのくらい地域に貢献するか、町民の品定めの対象でした。品定めといえば、江戸町人は相撲番付をまねて、様々な序列番付を好んで作り、愉しんでいました。

先物取引が世界で初めて、米問屋街の大坂堂島で、享保年間に生まれました。大坂商人の知恵で、全国の米価平準化に寄与しました。

おカネを「お足」とか「天下の通用」と呼び、すなわちモノを流通させるツールとの心得が徹底していました。だから、「宵越しのカネはもたない」、「カネは天下の回りモノ」と楽天的でした。

紀伊国屋文左衛門が富岡八幡宮に金の神輿を3基寄贈し、吉原で小判をばら撒き、慎ましく世を去ったように、他の商人も大同小異だったようです。年寄は経験豊かな長老として敬われました。子供は宝として、親にお金がなくても、稽古、勉強ができる環境でした。

様々な芸術、芸能、民謡、民話、遊び、そして武術、生活科学、和算と算額が、町や村の至るところで生活と労働と結びついて展開されました。歌舞伎は士農工商より低身分の者が創造したものです。春画は娘の性教育書ででもあったようで、開放的で愉快な生活文化であったと思います。 

日本の江戸時代初期、幕藩インフラの建設のために、各地で大量の森林を禿山になるまで伐採しました。たたら製鉄には、一か所で年に60haの樹齢30年の樹木が必要で、循環利用のためには1,200haの森林地が求められます。森林の過伐によって、洪水災害の多発を招きました。時に、熊沢蕃山(1619-1691)は山野の荒廃とその行く末を憂い、自ら治水工事を行い、伐採・耕作の制限と植林奨励の諸国山川掟」(1666)の幕府発令に貢献しました。これによって、森林枯渇による文明衰退が、日本では防げたといえます。明治政府は富国強兵策の盛んな1910年に、250年前の熊沢蕃山を学問興隆の功績で評価し、正四位を叙勲しています(Wikipedia)。

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