「カントン」―グロバリゼーションのコアーを考える

「カントン」―グロバリゼーションのコアーを考える
(写真①)

世界のダイナミックな動きをグロバリゼーションと捉えて久しい。
しかし、どこを中心にするかによって、向かう方向も色合いも変わっていく。 我々はその中心点、コアーを確かなものにしなければいけない。
一般的にはグロバリゼーションの対義語はローカリゼーションといわれる。田舎、郷土、地方への回帰を意味するのか?
ここでは仮にそれを「カントン」としよう。

「カントン」はスイス独特の行政単位である。「州」と訳されることもあるが、アメリカ合衆国のそれより強い独自性と自主権を持っている。独自の憲法も有している。その基本理念は直接民主主義である。 そのことはシフトム連載の大久保泰邦さんの『ジュネーブ便り6』に詳しい。 また同『便り7』では「カントン」の一つザンクトガレンで、地熱開発を市民投票で決めたことを紹介している。
筆者は私の弟。一昨年から昨年にかけてジュネーブに赴任していた。私はこれ幸いと、そのアパートを根城にスイス内を回ることができた。
スイスの国土面積は日本の九州本島とほぼ同じと考えていい。 ザンクトガレンはその東北の外れに位置する。ボーデン湖を境にドイツ、オーストリアとも接する。旧修道院は世界遺産に登録されている。
私の一つの疑問は、この科学的にも技術的にも高レベルのしかもリスクの高い地熱開発をどうして「カントン」の市民レベルで合意できたのかということである。

かつて日本にも個性溢れる自治都市があった。戦国期の堺、博多など各地に誕生した自由都市はそれに近い。さらに下って江戸期の幕藩体制なども刮目に値する。 中央からの自立という観点で「藩」は「カントン」に相当する。加賀百万石は強力な独立都市であった。幕府の介入を許さなかったことは、代官所を置かなかったことからも分かる。
また、加賀藩に限らず、中小全ての藩が幕府や他藩の介入を嫌った。独自の言語を使い、独自の産業を興し、藩札を発行し、学問も教育も藩独自に行い、他国ものを容れなかった。 藩そのものを「国」と呼んでいる。「お国自慢」「お国入り」ということばは「日本びいき」「帰朝」と異なることは自明であろう。この藩組織が幕府を上回ったのが幕末である。
(写真②)

ここに高山陣屋米蔵に積まれた俵の写真がある。写真②.ちなみに飛騨は幕府直轄領十万石だと言う。 写真に見る通り1俵には「玄米4斗」とある。首を傾げていると案内の方が 「高山では籾米でした」と訂正してくれた。
そう、貯蔵するには籾のままの方が良い。米は籾の中でじっくり熟成される。美味くなる。 「あいつは新米だ」というのは褒め言葉ではない。「古米」が褒め言葉だ。 私の幼児期には籾米が米屋にあった気がするが、今は見ない。籾米は嵩張り、貯蔵にも流通にも適さないからだろう。一方脱穀し精米したコメはどんどん風味が落ちる。だから、早く食べた方がよい。新米ほどもてはやされる。
高山陣屋の御蔵は現存する最古最大級の米蔵と言われる。長い方の1辺では50メートル走が出来そうな大きなものだ。一体年貢はどのくらい納められていたのか。 展示された説明の中から一部を紹介する。

「飛騨国の貢租資料」(嘉永6年) 三郡貢租(本途成物、追加税、雑税)
合計 米24,941,409石(内  14,712,709石は金納) 金531両1分 永142文
外に口役銀1,382両2分  永123文5
代官所に納められた年貢米は全て金に替え幕府金蔵に16,795両1分 永157文51が納められた。
さらに参考資料を記す。
弘化年間(1844~1847)高山・古川御蔵収納組の内107カ村が年貢米の1/3を金納、大豆納
13カ村を除き、その他の村294カ村は全て金納でした。
※年貢として納められた米は、全て国内での消費に当てられました。

つまり、農民は年貢米の大部分を「米納」にせず、副業その他で得た「金」で納めていた。賢く副業に励めば富んだであろうし、その逆もあったはずである。 さらに代官所は農民からの年貢米を1俵たりとも飛騨国外に出さなかった事実。
うーんと唸ってしまいました。幕府には「金」だけ送られていたのです。これでは物価の上昇と米の高騰が続けば幕府の財政は逼迫する筈です。また、米の換金は商人の手を通しますから、商人が潤うのは当然でした。
高山は実入りが少ないと土地の人はその貧しさを語ります。現代であれば耕作を諦めて土地を離れることもできますが、封建制度のもとでは、職業選択の自由も移住の自由もありません。 過酷な土地でもそこしか生きる土地がないことを知る者の知恵は、「金」よりも「食物」を選んだのです。朴葉味噌や、栃の実せんべいを考案した知恵にも感動をおぼえます。
案内係の「高山では籾米でした」の意味がよく分かります。御蔵米は非常時の備蓄食料、投機商品、換金可能商品でした。だから品質にこだわります。間違っても精米して保管しません。

話をザンクトガレン戻そう。 2011.12.28早暁、スイス西端のジュネーブ駅から東北東を目指した。勿論その時、地熱開発のことは知らなかった。世界遺産を見るのが目的だ。 スイスの鉄道は実に良くできている。第一安価だ。住民はコミューン(日本の区町村にあたるか)役場で40フランの鉄道、バス、船の2等ワンデーフリーパスを手に入れることができる。特急に乗ってスイス中を回れる。 しかし特急と言っても名だたる山岳地帯を越えて行くのだから、中央線あずさ号ほどの速さと考えよう。チュ―リヒまで3時間弱。更にザンクトガレンまで1時間強。
世界遺産の大聖堂内陣は圧巻だ。「世界一美しい!」とため息を漏らす。 帰ってからジュネーブ在住の友人にそう言ったところ 「ウエストミンスターよりも?…ロンドン…行ったことある?」 「え…あるけど…」 問い返されて途端にうろたえた。ヨーロッパの二つ三つを見て「世界一」というのは確かに変だ。 だが、やはり世界一。なぜなら大聖堂が持つ巨大な「闇」がそこにはない。窓ガラスから射し込む白磁の光はあまねく万物を照らし、神々の像は惜しみなくその姿を顕わす。祭壇に散りばめた黄金の煌めきには陰りがない。 外に出ると鐘が鳴り始めた。聖ロレンツオの鐘も鳴る。

その脇に図書館が有る。10万冊を越える絢爛たる蔵書は、この修道院に莫大な富と知識が集中したことを物語る。
(写真③)

ケーブルカーの所在地に足を運ばせた。写真③。左が駅舎。運行しているように見えない。帰りの列車が気になるが、とにかく上に見える橋まで行くことにした。山径を辿る途中に案内標識があった。写真④ 読めない。7C初頭この地に到り、修道院を建てた聖ガレの縁起を記したものか。勝手に想像する。そのうち橋が遥か下に見える。では、と回り込んで下りて行くと崖側からぱらりぱらりと小石が飛んでくる。しまったと思ったが下り切る方が早い。 そんな危険を冒して撮影したのが冒頭の写真①である。
一体この美しい古都のどこで地熱開発のボーリングが行われているのか。 さて、元来た道を辿るのは危ないと考えていると、なんと、足下に階段があるではないか。なんだ、初めからこの階段を上ってくればよかった、次は、いや次はないかとぼやきながら再び旧市街へ戻る。
往時、修道院には、沢山の修道僧や農民や職人が集まり、その共同体によってカントンは運営されたという。直接民主主義である。 僧達の知識は広く、自然科学、音楽、作曲などあらゆる分野に通じるとともに、農作業、大工仕事、医療、家畜の世話、ワイン醸造などに従事し、自給自足の生活を行ったという。
過日、ジュネーブ近郊のニヨン城に弟と訪問した際、黒いソーセージとワインをふるまわれた。「ここで作った」と説明されたが、そうか、修道院では副業でワインもソーセージも作るのだ。 実に「カントン」の歴史の礎は修道僧の自給自足の生活から始まっていたのだ。
江戸時代の「藩」は「カントン」に相当すると先に書いた。前者は大名知行の独立都市であり、後者は、修道院を中心とする自給自足の共同体による自治都市である。成り立ちも方向もかなり異なるように見える。しかし、自立と独自性のある都市(国)を目指す点では共通している。
グロバリゼーションの加速する世界にあって、そのコアーとなる「クニ」の「カタチ」はどうあるべきか、一人一人が考えなければいけない時期がきている。道州制もその一つであろう。
今、ザンクトガレンの住民は、世界遺産という過去の栄光を財産にしつつも、なおも、地熱開発という最先端の技術とインテリジェンスを手に入れようとしている。そこに山岳民族の「選ばれし者」の矜持と敬虔な祈りを感じるのは私だけであろうか。
翻って、自分の住むクニを考えてみよう。 「余儀なく」そこに居るのか、「生まれた時から」そこに居るのか、「求めて」そこに居るのか。こんな問いかけから始めてみるのもよい。 グロバリゼーションの対義語は何か。それが無ければ世界は無に等しい。コアーを明らかにしなければならない。
(写真4)

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